「考える」ことを初めて考えた日
近年の哲学ブームは『嫌われる勇気』が出版されたあたりからずっと続いている。『嫌われる勇気』は2016年の出版だから、もう6年近く続いていることになる。ビジネスマンが読むような雑誌でも哲学の特集が組まれたり、哲学の入門書のようなものもたくさん出ている。単なるブームにしては長い方だと思う。タピオカは3年ももたなかった。私が、哲学に興味を持ち始めたのは高校2年生のころだ。おそらく2017年。ちょうどブームに乗ったようなミーハー者である。もちろん、当時はそんなことを意識しているはずもなかったが。今日は、哲学に対する自分の考えを平易な言葉で綴りたい。
まず、ブーム以前の哲学は、役に立たない学問の筆頭であった。それは、哲学に対しての、"難解なイメージ"と"現実離れという実社会からの浮遊感"が原因だったのだろう。『嫌われる勇気』はアドラー心理学に基づいた本で、そのタイトルが示すように、実社会でも、というよりは実社会においてこそ役に立つように書かれている。このように哲学自身を実社会に適応させる形でブームは広まったと言える。
私が哲学に足を踏み入れたのは、だから、分かりやすい類の書籍からであった。さしたる抵抗もないまま、面白そうな本を買って読んでみた。『哲学の練習問題』(1998年・西研著)という本だった。たしかメルカリで買った。この本は、毎日新聞の1年間に及ぶ「サンデー文化知に楽しむ」連載企画を後からまとめたものだ。一つのテーマに対して、1000文字くらいで思考の過程をまとめている。そして、そのテーマは例えば、「がんばることに意味があるの?」という素朴な疑問から「人は何のために生きるのか」という根本的な問題まで多岐に渡る。しかし、わたしは「思考の過程をまとめている」ところに惹かれた。「心のノート」のように、先生が求める回答を察するゲームではなかったし、こう考えてみてはどうだろう、行き詰ったときは視点を変えてみる、とかたくさんの可能性を示してくれた。もちろん、新たな発見もたくさんあった。「すごい、確かにそうとしか言えない」というような尊敬のまなざしを著者に向けたことも何度もあった。冒頭のプロローグには「哲学とは、なるべく根っこから考えようとすること」、「考えるということは、自分の問いに明確に向き合うこと」だと書いてあって、「この人は考えるということについて考えたんだ」と当時の自分はちょっと驚いた。そして、その考えることに真摯な姿勢は強く印象に残ったし、自分の中で「哲学」と「考える」ことに対するイメージが少しだけ輪郭を持ち始めた。
ちょうどこの頃、高校の倫理の授業で、哲学とは、英語で"philosophy"と言い、"philosophy"はギリシャ語の"philein-sophia"を語源とするもので、「知を愛する」あるいは「愛知の学」という意味だということを知った。ここで言う「知」は単なる知識のことではなくて、「考える」ことだろうとすぐに思い至った。「考えることに真摯に向き合うことが哲学だ」という自分の考えが確立した瞬間だった。
マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』、アンリ・ベルクソンの『時間と自由』なんて自分にはさっぱり分からないし、そもそも読んだこともない。でも、例えば「神は死んだ」とか「われ思う、ゆえにわれあり」とか「人間は考える葦である」とか、そうした哲学的名言にたまに出会うときがある。「教養」を謳ったクイズ番組で取り上げられることもある。そんなのは単なる知識でそれを基準に「教養」を図ろうとする単純な構造を、番組を観てもらうための手段なのだろうなと思いつつ、「それはルネ・デカルト、フランスの人ね、数学の座標平面を発明した人」なんて心の中でつぶやく。だが、何回も聞いていると、いよいよその言葉の真意を知りたくなる。
そして、古本屋に駆けつけた。学校で配られた世界史の資料集によると、「われ思う、ゆえにわれあり」はどうやら『方法序説』という本に書いてあるらしい。スマホで画像検索をかけたから、表紙が青色の岩波文庫を探した。税抜き100円で売られていた。一通り読んでみて、デカルトの真摯さがすごく伝わってきた。これは自分の友達も言っていた。全6部構成となっている『方法序説』だが、その第4部に「われ思う、ゆえにわれあり」が出てくる。私が注目したのは、この第4部の冒頭にある「だが、わたしが選んだ基礎が十分堅固であるかどうかを判断してもらうため、それについて語ることは、ある意味で私の義務であると気づいた。」という一文だ。デカルトよ、まじめすぎる。
こうして、やはり「考えることに真摯に向き合うことが哲学だ」という考えがより強固になった。今でもそう思っているから、友達が自分の家に来て本棚を見たときに「哲学の本、多いね」とか「哲学好きなんだね」と言われると、「別に時間の在り方とかについて考えてるわけじゃないよ笑、ダーザインとかよくわからん」と思う。実際、ちょっと面白そうと思って履修した一般教養科目の哲学の授業は最後まで何を言っているのかよくわからなかった。担当教授が青森の出身で訛りがきつめなのも災いした。リアルタイムのオンライン授業だったから、たまに本当に音声も途切れた。なおさら、分からん。金曜1限の授業だったし、本当に授業中に寝ていた。最後の方は、さぼって友達と旅行に行くバスに乗り込み、接続だけしてスマホのボリュームは0にしていた。小説はよく貸すけど、誰も哲学の本を借りてくれる人はいない。家にある哲学の本は割と面白いと思うから、今度家に来た人は借りてってください。お願いします。