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書くという行為

書くことが救いで、書くことしかできない。
言葉はとても膨大で無限で、その意図を分かった上で常に的確な言葉を慎重に選んで話すのは思っているよりもしんどいし精神が削られる。
そんなことを一日会話しながらやっていると途中で強制シャットダウンが始まる。
だから書くのが好きだ。
選べる。
悩める。
できるだけ近い言葉を吟味しておいてあげられる。
磨いた言葉が鈍く光るのを見て少しだけ安心する。

書くことができるなんていうと生意気かもしれないので書くことが好きだと言おうか。
好きなのだろうか。
もうわからない。
思いつくままに字を書くだけの日記も、
写すだけの日本史のまとめノートも、
書くだけで精神が抉られていくのを感じて
それが生きている実感だったりする。
歪な字の大きさ、端に滲んだ水滴、先の丸くなったシャーペンの芯

書いて納得することなんてない。
どこまでも無限に、言葉というものが存在する以上、
私という一人の人間が感情を持つ以上、
そして私が完璧ではない以上
100何かを表現することなんて不可能だ。
それをわかりきっている。
書く、読む、思う
一方的なものの一つ一つが自己中心的な集合体
他人を願った自慰行為

ただの吐露が君を汚すのかも磨くのかも
知ったこっちゃないとか
怒られてしまうだろうか
怒られるほどのものでもないだろうか

この言葉ひとつにどれだけの経緯と背景と歴史があって、
悩んだその1秒1秒が伝わるんだろうか、
伝えたい、んだろうか

バベルの塔での出来事で僕らは多言語に分かれ、多民族になったというのなら
同じ言語を話し理解するコミュニティで膝を抱えたあの日の彼女は救われない
不完全な言葉だけを抱えて
どうしようというのだろう
それに完全を求めて
私は何がしたいんだろう

諦めが賢さでもあるという母の言葉
納得ができない私は多分まだ“餓鬼”
大人の事情が理解できるようになるまでは
きっと泣いている赤ん坊のままだ

読んで書いて発して飲み込んで
そうやって
苦しめばいい
そうやってちゃんと傷付けばいい

まだ見ぬ彼女が
もう泣かないでいいように

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