量子と仏教の中論
仏教の空や無の意味が一般用語の意味と違うのがわかってきました。
学者や僧侶もわかってないかたが多いことも
インド唯識学も
固有の自我がある唯識派から、空の固有の自我がないの、中観唯識派になったのもわかりました。
龍樹も釈迦も仏教も、人間が見ている思っているものは、意識が作り出した実体がない幻覚なようなものだと言っているんではないですかね。
釈迦は、我はあるのかないのかの問いにたいして、無記として答えませんでした。
わからないからです。
この世界は、幻覚だや実体がないとかの話とは違うのではないでしょうか
実際に、存在しているでしょう
科学として見たら、量子だの粒子だのより、
シュレーディンガーの猫や不確定性理論みたいだなと思っていますよ。
量子テレポテーションとかもありますね。
古代は、そんなことはまったくわからない理論構築でしたから、過剰解釈もほどほどに
私は龍樹の空のほうですよ、今は、チベット仏教のほうで、チベット仏教普及協会正会員ですから
龍樹は、釈迦の無も空だと言っています。
無も空も言語表現なので、いろいろ混ざっていますね。
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龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした。
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瑜伽行中観派(ゆがぎょうちゅうがんは、Yogācāra-Madhyamaka)とは、大乗仏教において、瑜伽行派(唯識派)の教説を中観派へと吸収・統合することを志向した、後期中観派スヴァータントリカ(自立論証派)の総称。チベット仏教に多大な影響を与えた。
なお、同じくスヴァータントリカ(自立論証派)で経量部に近接していると見られた人々は「経量(行)中観派」「経部行中観派」(Sautrāntika-Mādhyamaka)と呼ばれたりもした。
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量子が実在がないと言っていたのは、100年前の解釈ですね。
龍樹の空は、何千年前の解釈ですよね。
今の宇宙は、五%ほどしか解明されていません。
仮説がたくさん
私は、偉いかたが言っているからと鵜呑みしません。
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『実在とは何か』は、コペンハーゲン解釈の持つ問題点を取り上げ、それが初期から批判されてきたこと(特に、局所的な客観的実在を信じるアインシュタインによって)、代替解釈がいくつも提案されていること、そして実験によって局所実在論的な見方は否定されたものの、コペンハーゲン解釈の実在の捉え方にも問題があることを紹介し、このような状況に至った科学史的経緯を、多くの文献やインタビューを通して明らかにし、最後に今後物理学者はどのような姿勢で物理学に臨むべきかを提案する意欲的なものだ。
著者アダム・ベッカーは、宇宙論の博士号取得後、カリフォルニア大学バークレー校の客員研究員を務めたこともある。BBCのウェブ動画の原稿や、科学誌『ニュー・サイエンティスト』の記事なども執筆し、量子力学の不思議な世界を人々に広める活動に取り組む。
量子力学の「この世は観測されるまで存在しない」という事実について
量子力学は、現代物理学の中でも最も奇妙で直感に反する理論の一つです。その中でも特に興味深いのが、「観測されるまで存在しない」という概念です。この考え方は、一体どのような意味を持ち、どのように理解されるべきなのでしょうか。
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観測するまで、わかるまで、量子だとわからない説明ではありませんか?
粒子物質が入っているなら、存在もするし実体はあるのではないのですか?
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粒子(りゅうし、英: particle)は、比較的小さな物体の総称である。大きさの基準は対象によって異なり、また形状などの詳細はその対象によって様々である。特に細かいものを指す微粒子といった語もある。
量子が実体がないと言った100年前は、まだ実体がわからなかったからではありませんか?
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量子は何でできていますか?
「量子」とは、原子やそれを形作る電子、陽子、中性子、さらに小さなニュートリノやクォークなど、私たちの暮らす世界とは異なる法則が働く粒子のこと。
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量子は、粒子の実体があるとずっと言っていますよ。
仏教の空は、実体がないではなく、不変の実体がないとずっと言っていますよ。
仏教の「空」とは、固定した実体がないこと、またはすべてのものが相互に依存し、一時的で変わりやすいものであることを意味します。仏教思想において最も重要な教えの一つで、「無我」「無常」とも表されます。
「空」の語源はサンスクリット語の「シューニャ(śūnya)」、パーリ語の「スンニャ(sunña)」で、梵語では「シュヴィ」という語根があり、「膨れる、成長する」という意味を持ちます。
「空」の教えは、次のような意味合いがあります。
この世も私たちも、さまざまな要素が絡み合って存在しており、独立した存在はない。
物事が永遠に不変であるという幻想を打破し、すべてのものが相互依存し、一時的で変わりやすいものである。
すべてのものごとは縁起によって存在しているのであって、絶対的存在であるとか、すべてのものごとの根源の存在であるというものはない。
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学者でも、まったく理解できないかたがたくさん
中論は、両方あるから、縁起が起こり空だとの説明。
中論の薪の話を知らないのですか?
薪の火は、薪だけでは火はつかない
火だけでも蒔きに火はつかない
両方があるから、蒔きに火がつく縁起が起こる。
釈迦の縁起は、十二縁起や因縁果報
仏教は、他にも縁起を考えてきました。
科学で考えるより、もっと仏教を研究したらいかが
私は、まだまだ研究中、わかったとは思っていませんが
ちゃんとした説明の話聞いて、理解すれば考えも変わってきましたから
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「火は薪ではない。火は薪とは異なる別のところに有るのでもない。」
龍樹『中論』(『中論』(中)第三文明社 329頁)
標題のことばは、大乗仏教の教理の基礎を確立したインド人の僧、龍樹(150-250年頃)によるものです。この一見奇妙なことばを読んで、なかには首を傾(かし)げた人もいるのではないでしょうか。
私たちは、薪(たきぎ)が燃えている様子を見れば、当たり前のように「薪が燃えている」と思い、それは誰かが火を付けたからだと考えることでしょう。ですが「薪に火を付ける」という言語表現は、日本語としては何ら問題ないにしても、それは現実世界のことをその通り言い表していると言えるのでしょうか?
私たち人間は常に言語を用いて外界を捉え判断しますが、「薪に火を付ける」と言うからには、薪と火は同じものであるはずはありません。もし同じであるならば、そもそも「薪」と「火」という別の単語で区別する必要はありませんし、「付ける」という動作も意味をもたないことになります。しかし、薪と火が別物であるとするならば、火は薪に依存することなく、単独で存在するものでなくてはなりません。しかし実際には、薪に依存しない火というものを考えることはできません。このように考えると、薪と火は同じとも別とも言えない不思議な関係にあることが分かります。
龍樹がこのように人間のもつ言語の働きを批判的に問い直したのは、「空(くう)」の思想を示すためでした。空とは、あらゆるものには固有の実体などないという意味です。しかし人間の操る言語は、様々なものにあたかも実体があるかのような錯覚を私たちに抱かせます。そうやって私たちは言語を用いて思慮分別(ふんべつ)し、様々なものに執着し、一喜一憂しながら生きているのです。それゆえ龍樹は、空ということを正しく理解して、我執による囚(とら)われを離れた無分別の境地に至るべきと説きました。
大谷大学ホームページ参照
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『中論』は、勝義諦(真諦)と世俗諦(俗諦)という2種の真理があるとする二諦説を述べる。前者は直接認識された非相対的な世界であり、後者は言語によって概念的に認識された相対的な世界である。言葉では表現できない釈迦の「さとり」は真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとされる。さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。
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無自性空とは、あらゆる存在は縁起によって成立しており、不変の独自性はもたない(無自性)という大乗仏教の思想です。
この思想は、初期経典でも説かれていましたが、大乗仏教の時代になって『般若経』などによって強調されるようになりました。
無自性空の思想を理論化したのが、2世紀後半から3世紀前半にかけて活躍したナーガールジュナ(龍樹)で、彼の主著は『中論』です。ナーガールジュナは、飛蚊症という眼病のたとえで、あらゆる存在は縁起によって現れてくるが、それらは空を本質とする(空性)と説明しました。
空という梵語は「シューニャ」と発音され、「無」とも漢訳されますが、語根の「シュヴィ」には「膨れる、成長する」という意味もあります。
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般若心境の現代語訳で、固有が抜けて実体がないと書いてあるのもたくさん
意味がまったく違ってきますから
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観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していたとき、もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」であると見極め、だからこそ、あらゆる苦しみと災いを克服した。
舎利子よ、形あるもの(色)は、空に異ならず、空は、形あるものと異ならないのである。形あるものは空であり、空は形あるものなのである。そして、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用もまた、同じく空なのである。
仏教は、苦や煩悩を無くすを目的にした実践行
実践行で得た状態を、学者僧侶が後からこじつけして、哲学や思想にしただけ
社会で生きる大衆が必要なのは、苦や煩悩を無くす実践法ですから。
科学も、大衆は応用科学で社会で使えるようにしたものしか必要ありませんから
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僧侶の専門職になり、何十年も修行や勉強して体得理解できるものを
社会で生きる大衆がどれだけできますかね?
わかったところで、人生も終わりのころ
社会では使えなかったで終わりますよ。
仏教は、僧侶の修行や教学とは別に、大衆用の修行や教学を用意したんですよ。
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チベット僧侶の修行です。
チベットの僧院生活は厳しい。共同生活を営みながら、僧院内の分担仕事をこなし、あらゆる種類の宗教的儀礼を行い、独習もしなければならない。それは、早朝から深夜に及ぶ。年輩の僧は、規律を維持し集団を導く大きな責任を持つ。若い僧は当番で厨房の仕事、買出し、食事や茶の給仕などを担当する。
学習と礼拝が僧院生活の主題である。新入の僧は基礎チベット語、文法、文学、スートラの詠唱、祈祷から始める。次に、アビダルマ(形而上学)、プラジナパラミタ(智慧の完成)、プラマナ(論理学)、マディヤミカ(中間思想)といった仏教教理を学ぶ。学習期間は普通18年もしくはそれ以上かかるとされている。スートラ(顕教)とタントラ(密教)の仏教経典、その他、占星学、医学、絵画工芸も必須科目である。さらに仏教哲学の意味と暗示について分析思考し、何時間も黙想する。
スートラの問答技術は、仏教哲学を深めるのに重要である。問答は試験の方法でもある。試験では、試験官の僧と討論しなければならない。合格すれば、「モンラム(大祈祷祭)」での問答会に参加する資格が与えられる。その問答会で勝ち進むとチベット仏教学の最高学位であるゲシェ・ラランパの称号が与えられる。さらにより高度な宗教学を修めたい僧は、密教学堂に進み、ゲシェ・ンガランパ(密教博士)の称号を得るよう精進する。こうした学究生活に入り、宗教的達成に近づくことができるのは、数少ない秀才の僧のみである。ほとんどの僧が、僧院の職人、大工、芸術家、料理人などの仕事に就くのが普通だ。
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ハウツー本とは、ある作業や物事の手順や方法が書かれている冊子で、初心者や慣れない人の助けとなることを目的としています。
「ハウツー」は「How to(どのようにするか)」に由来しており、より実用的な情報資産を指します。専門的な知識や情報を表すノウハウとは異なり、ある作業の手順などが記載されているもので、専門的である必要はありません。
ハウツー本を読む際は、次のような点に注意しましょう。
書かれている内容はあくまで一例なので、すべてを鵜呑みにする必要はありません。
最初はハウツー本に書かれていることを真似して進めたほうがスムーズにコツを掴めます。
最終的には自分で考えることが大切になります。
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私の若いときは、すぐにできると書いてある、いろいろなハウツー本が流行っていました。
そんなとき、ヨガの先生が本を出すとき、二年かかる瞑想を、4ヶ月でできると書かないと本が売れないと言っているのを聴いて
商売で嘘もたくさんだなとおもいましたし、
大衆は、すぐに効果あるものや答えがででいるものを求めていると思いました。
仏教も、僧侶用と大衆用があるのがわかりましたよ。
苦悩や煩悩を無くすために、空になれや無になれの話でしょ?
現世の生き方は、実在論でしょ?
釈迦から、仏教の教えをちゃんと読んで考えて行けばわかりますよ。
空や無の大乗仏教なのに、何で見えない、わからないたくさんの仏がいる仏教なのか理解できないのですが
誰か説明してもらえますか
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釈迦の前から空や無の理論はあったと思っていますよ。
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無所有処(むしょうしょ, ākiñcañña-āyatanaṃ)は、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。九次第定のひとつ。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。
聖求経では、釈迦が師匠のアーラーラ・カーラーマより無所有処の教えを聞いたと記されている。
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インドでは、龍樹はこんな人物になっています。
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ナーガルジュナ (西暦 100 年)
化学科学の魔術師
彼はマディヤ・プラデーシュ州の目立たない村バルカに生まれた、並外れた科学の魔術師でした。12年間の献身的な研究により、化学と冶金学部で初の発見と発明が生まれました。「ラス・ラトナカール」、「ラシュルダヤ」、「ラセンドラマンガル」などのテキストの傑作は、化学への彼の有名な貢献です。中世のイギリスの錬金術師が失敗したところで、ナーガールジュナは卑金属を金に変える錬金術を発見しました。「アロギャマンジャリ」や「ヨーガサル」などの医学書の著者として、彼は治療医学の分野にも多大な貢献をしました。その深い学識と多岐にわたる知識により、彼は有名なナーランダ大学の学長に任命されました。ナーガールジュナの画期的な発見は、今日の科学者に感銘を与え、驚嘆させています。
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ナーランダー僧院
グプタ朝の5世紀に創設され、ヴァルダナ朝でも栄えた仏教の僧侶養成学院。玄奘と義浄も学んだ。
5世紀頃、グプタ朝の王の保護のもとに建てられた仏教の教学を学ぶ学院で、7世紀のヴァルダナ朝でも栄え、唐から訪れた玄奘と義浄もこの学院で学んだ。ガンジス川流域のビハール州南部、マガダ国の古都ラージャグリハに創建され、現在は遺跡が残っている。ナーランダ僧院は一時は数千人の学僧を集め、仏教教学を中心に、バラモン教の教学や哲学、医学、天文学、数学などを研究する、総合大学の感があった。ヴァルダナ朝、次のパーラ朝でも保護を受けたが、1200年頃、アフガニスタンから侵攻したイスラーム教徒のゴール朝によって破壊され、インドにおける仏教の繁栄は終わりを告げた。20世紀になってその遺跡が発掘されている。
ゴータマ・ブッダ が訪れ、"Pavarika" と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法した。
仏教を学ぶ重要な場所となり、10,000人までの人が滞在した(最古で、それまでの歴史で最大の居住型の学校、最多で1万人の生徒と、1,500人の教員がいた。高い塀と、1つの門、図書館は9階建ての建物にあり、多様な分野の教科が行われていた)。
チベットの記録によると、インド仏僧龍樹(ナーガールジュナ)(150 - 250年頃)が講義を行ったとされるが、グプタ朝(427年成立)時代に、クマーラグプタ1世(英語版)によって僧院が出来たと思われる。
645年(唐時代)に、唯識派のシーラバドラ(中: 戒賢)は玄奘三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部に及ぶ経典を中国に持ち帰った。
761年に中観派のシャーンタラクシタ(中: 寂護)がチベット仏教を起こし、774年にはニンマ派の開祖パドマサンバヴァ(中: 蓮華生)が密教をチベット仏教にもたらした。サムイェー寺の宗論(792年 - 794年)では、インド仏教のカマラシーラと中国仏教の摩訶衍が宗教論争を行い、チベット仏教の方向性を決定した。
1193年に、アイバク靡下の将軍 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー 率いるトルコイスラム人の侵略によって僧院は破壊された。インド仏教の衰退はグプタ朝時代から始まっており、イスラーム侵入以前にはほぼ衰退していた。イスラーム勢力によるナーランダー僧院の破壊はインド仏教の滅亡を決定づけた。
Wikipedia参照
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私の考えでは、ナーランダ大学ができる前は、仏教僧侶の修行や教学の寺だったのではないかと思っています。
龍樹も、バラモン教だったのを、この寺で仏教に帰依したと思っています。
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空や無を量子や数字にするにしても、仏教の空や無の理解が間違っていたら
結果も数字も間違ってでてくるでしょう。
仏教や仏教哲学とヒンズー教やインド哲学では、違う内容があります。
修行法が同じでも、意識の修行ですから結果は違って出てくるでしょう。
http://mitu777.data.blog/2024/03/16/amazon%e3%80%80%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%a6%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a7%e3%83%bc%e3%83%80/