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日本と海外生活と浦島太郎
浦島太郎というお話は知っていますよね。昔、絵本で読んだとか、親に伝え聞いたとか、色々あると思います。
あらすじは敢えて書きませんけど、結末だけ書くと、最後、「竜宮城を離れるときに渡されたお土産を、戻ってから玉手箱を開けると、浦島太郎はおじいさんになってしまった」というくだりです。
これ、当時はなんとなく、恐ろしいことだなぁ、と思っていました。だって、箱を開けただけで、一気に歳を取り、そして周りの景色も、人も、世の中も、全部が変わってしまっていた。ということに対する、不安でしょうか。
子供心に、なんかそういうのがあったように思います。
そして、その感覚が、最近あるんじゃないかと思うのです。
海外で生活を始めてから数年が経ちました。日本のことは忘れてないし、わたしは日本人であることは動かし難い事実。パスポートも持っているし、外見は日本人かどうかは、わからんけども、少なくとも、こちらの現地人から見れば「東洋人」であることはわかると思います。
つまり浦島太郎が経験した、ある意味「異世界」にわたしも足を踏み入れている真っ最中です。
昔話と違うところは、こうやって、異世界に住みながらも、ネットの世界を通じて、日本の情報を得ることができています。そのおかげで、実態は正確にはわからないけども、ある程度、今、日本がどうなっているのか?は理解することができます。
それを通じて、日本では・・・、海外では・・・というところを分析できたり、比較検証できたりもできます。
それはある意味、ネットのおかげかも。
でもですね。
そこはやはり、目で見て、触れて、感じたことではないので、数年前までいた過去のことと、今を生きている瞬間に触れていることをミックスして、単に「想像」しているだけに過ぎないかもしれません。
まぁ、ある程度「想像の範囲内」ではあるけれど、でもそれだって、100%ではないことは、わかっているはず。
どこかにズレがあるはずです。
そういう意味では、「わたしが知っている、日本」ではもうなくなってしまっていて、今ここにいる時間はやはり「日本時間」ではなく、違うところで日々生きているということです。
つまりは「日本から取り残されているような感覚が、ある」ということです。
浦島太郎のことを持ち出したのは、そういう側面があります。加えて、やはり長く暮らしていたところから、一歩外へ出て、その文化が遮断されると、新しいことを覚えていくと同時に、これまで培ってきたことを忘れそうになります。
こっちの文化に適応するあまり、もともと持っていた文化、習慣だったりをどこかおき忘れているような感覚、と申しますか。
根っこの部分は定着しているので、完全に忘れることはないと思うんですけど、それでも、忘れかけているような感覚があるんですよね。
そこも含めて、どうにかこうにか折り合いをつけて、生きていく、そしてその経験を昇華していくのが良きだと思いますけど、どうなるでしょうね。
それでは、また。
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