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【短編】火を育てる

 トロントにあるオフィスビルの一室で、男は最後のダンボール箱に残りのものを全て入れた。デスクには何も物がなく、それだけでも爽快な気分になった。
お世話になった人たちに挨拶をしてから、男はダンボールを持ってエレベーターを降りた。それが最後のビルで見る彼の姿だった。

 男はユコンに訪れ、そこに住み着いた。萬緑の山々が彼を出迎えた。彼は久しぶりに土の感触を足に感じた。コンクリートでも、公園の砂でもない。微生物が枯葉や死骸を分解し、雨が降り注ぎ、雪が積もり、ということを何千年も繰り返したであろう土の、柔な感触であった。彼はそこに跪き、手にとって握ってみた。男は、手についた土の汚れが、なかなか取れないことに気がついて、膝あたりで拭ってみた。ジーンズの生地は、すっかり汚くなった。男はそれがなんだか嬉しかった。

 しばらくして秋になった。男は、その頃には木造建築の家にすっかり慣れていた。この時期は乾燥が徐々に激しくなる。男はなるべく火を使わないように心がけた。それが山に対する敬意を示しているかのようで、嬉しくなった。
 そしてちょうどこの頃に、満足の仕事を見つけた。いわゆる木こりであったが、この地域には切っても無くならないほどの木が、山があった。でも男は、これが無限にはないことを知っていた。どの木を間引かなければならないのかということを、慎重に仲間と協議し、一本一本丁寧に切っていった。
 トロントでの業績を聞きつけた観光会社や地元の広告会社が、時々彼にランディングページの作成などを依頼した。男はあまり気乗りはしなかった。しかし、必要であれば好きなところに行き、写真を撮っていいという条件付きだったので、男はこれには満足して承諾した。秋のユコンは、まさに才色で美しかった。

 冬になった。男は、初めての冬に戸惑った。最初の夜、遠くでオオカミの遠吠えが聞こえた—気がした。自然は突然に彼に牙をむいた。
 彼は、常にどうするべきか頭ではわかっていた。なんとか、体を動かそうと毎日を必死にすごした。
 特に、朝は辛かった。薪を焚べて火を育てる必要があった。この季節は、風も強いし、気温はマイナス三十度にもなる。火は簡単にはつかない。枯葉をかき集め、種火を作る。まずこの段階で躓く。男はまだ慣れていない。やっとついたら、その後はささくれや、折った枝に火を移す。今度はそれらが消し炭になる前に、太い薪に火を移す。組んだ薪が崩れてしまわないようにそこに薪を追加していく。もし崩れて中の空洞が無くなってしまったら、より多くの薪を焚べることになる。男は実際、何度かそういうミスを犯した。そういう時、男は山や川に叱られているような気分になる。そして、「すまない、すまない。しかし、叱ってくれるなんて親切じゃないか。ありがとうねぇ。」と言いながら、山の方へと、薪の煙が昇っていくのを見るのだった。煙が男の声を載せている気がした。
 とにかくそうして火を育てるところから、男の冬の朝は始まるのである。

 男は、夏や秋よりも、髭が伸びるスピードが日毎に増してきているような気がした。髭に火がついたら笑い事ではない。そもそも、トロントにいた頃は、毎日一ミリだって剃り残さずに家を出たものだ。「そういう生活があったなぁ」と男は遠い空を見た。つい数ヶ月前のことが、あまりにも遠いこと、あるいは他人の撮った映像のように思えた。ここでは、毎日のタスクに追われることはなく、鳴り響く電話もないし、火のパチパチという音よりもうるさい音も滅多ない。時々降る雨は、本当に恵みのように感じられたし、雪を煩わしいと思う事もなくなった。

 来年はどうしているだろうか、と男は考える。しかし答えは明確だった。同じ事をしているはずだ。こうして火を育てている。男は、薬缶を火の上に置いた。そして、ようやくの思いでお茶を淹れた。この場所では、朝起きて、火を育て、ようやくすることは、お茶を飲むことだ。パソコンの電源をつけることでも、オフィスの空調をいじることでもない。永遠に溜まり続けるメールボックスも無く、この場所には五通で満杯になる郵便受けしか無いのだ。
 とにかく、朝起きて一時間以上もかけてお茶を飲む生活が彼の今後の決まり事だった。冬の過ごし方として、彼は死ぬまでこれを繰り返すのだ。男はけっして詰まらないとは思わなかった。どうせ、繰り返す事しかないのだから、人生は。つまり問題は、何を繰り返していくのかということで、どういう感情を繰り返し呼び覚ましたいのかであったのだ。

 ある日のこと、気がつくとあたりが真っ暗になっていた。
 この日、男はすっかり遠くまで散歩していた。その日の朝、男は一気にお茶を飲もうとして、口の中を火傷していた。冷たい風が、彼の口の中へと入り、それはなんとも言えない感傷を彼に呼び起こさせた。とにかく彼は歩いていた。村や町、木々の間を抜けて、川や湖のほとりを歩いていた。
 そうして、家に帰る頃には気がつくとあたりが真っ暗になっていたのだ。
 男は、この時に帰って来れてよかったと思った。この場所では時計があまり意味をなさない。日によって、あたりの明るさは変わるし、この季節はとにかく日の入りが早い。仕事の都合上時計は持ち歩いていたが、男はそれを見るたびに、何だか随分と長いことそれを見ていなかったような気分になるのだった。

 ベットの用意をして、ランプの灯りを消した時だった。急に外が明るくなった—気がした。しかし、確かに、カーテンの向こう側で何かが明るくなっている。
 男はすぐに火事だ、と思った。この季節は乾燥が秋よりも激しい。男は携帯電話を机の上から引ったくった。しかし充電が切れていた。男はこの日初めてそれに触ったのだ。そして充電は切れていた。くそ、“いつもなら” こんな事無いのに、と男は思った。男はその一瞬、自分がどこに住んでいるのかということを忘れていた。しかし、それは次の刹那に思い出された。
 男がカーテンを開け放つと、遠い、遠い空、その間には湖面と山々とが佇んでいて、その向こう側で、光のカーテンがゆらめいていた。オーロラは、次の瞬間に少し小さくなって、また大きく広がった。男は携帯を握っていることを忘れ、それをベッドに落とした。安堵と、驚異が同時に胸をいっぱいにした。決して小さくない窓枠が、今だけは彼の視界を程良く狭め、その景色に余計なものを差し込まないようにしていた。
オーロラは程なくして消えた。

 朝が来た。男は火を育てていた。そして、来年はどういう事を繰り返しているだろうかと思った。よく考えてみると、男は毎日“違う火”を育てていることに気がついた。一つとして同じ形にならない焔は、彼の毎日の象徴でもあった。
あぁ、明日も明後日も冬ならいいのに、と彼は思った。しかしやがて、春が来るのだ。その日、男は昨日と同じくらい歩いて、帰ってきた。昨日よりも少し日の入りが遅く、明るいのを男は悟っていた。
 春が鼻先まで来ているんだな、と男はそう思った。男は、翌朝の薪を用意してから、昨日と同じようにベットに突っ伏した。

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