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美しさを伝えるために

実家の父の書斎で探していた国木田独歩の『武蔵野』は、結局松本の下宿にあった。どうやら祖父から譲り受けた本だったようで、大坂の書店のカバーが掛けられて背表紙に「武蔵野」と書かれている。祖父の本は多くに読み終えた日付が書き込まれているのだが、この本にはそれがなかった。真ん中辺りに栞(大阪行きのJALの搭乗券)が挟まれていたので、そこまでしか読んでいないのかもしれない。

久しぶりに『武蔵野』を読みたくなったのは、帰省している間に実際に武蔵野へ足を運んだからである。いや、NHKのニュースで「武蔵野」の展示をしている博物館が紹介されていたのを見たということに、自分も武蔵野を歩いたという事実が加わって、読まなければならないという責務感を得たといったほうがより正確かもしれない。

今日の午後は久々にブログを更新しようと思い、帰省している間に撮った写真に添えて、冬の落葉樹の美しさを書こうとしたが、適切だと思える言葉を見つけることができなかった。そこへ国木田の『武蔵野』は、武蔵野の冬の落葉樹の趣を見事に叙景して見せた。

木の葉落ち尽くせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気が一段澄みわたる。遠い物音が鮮やかに聞こえる。

自分は言葉がたりないのだと思っていたが、たりないのは観察力だったということを思い知らされる。何かを見るにつけて、「綺麗だ」「美しい」と言うことは簡単だ。SNSにはそういう言葉が溢れている。溢れすぎて安っぽく思える始末。だが、何がどう「綺麗だ」と感じさせるのか、美しさを感じさせるものの正体について書いている人は少ないように思う。人に美しさを伝えるには、「美しい」と語るだけでは足りない。自分が美しいと感じた時に見えていた色、聞こえていた声、感じていた気配。そうした「美しい」ものの実態を描写することで、美しさは伝わるのであって、叙景とはそういうことなのかもしれない。もちろんこれは美しさに限った話ではなくて、寂しさも、清々しさも、輝かしさも、すべての形容詞がそうである。国木田を読みながらそんなことを考えていた。

帰省している間は、地元を走る西武線の沿線を歩くことが多かった。『武蔵野』が書かれたのは明治三十一年であるが、少なくとも当時は、国木田とその朋友によって「武蔵野」として認められた地域である。具体的な名前で言えば、ひばりヶ丘から保谷にかけての辺り、西武球場に近い下山口の荒幡富士の辺り、多摩湖近くの狭山公園、白子川の大泉から和光にかけて、空堀川の秋津から武蔵大和にかけてなど。冒頭の写真は白子川に出かけた時に見かけたカワセミである。

国木田が引く朋友の文によれば、東京の南北にかけては「武蔵野」の領分がはなはだせまいと言う。それは「鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているから」である。そうであるならば僕が歩いた地域のほとんどは、現在では「武蔵野」の領分から取り除かなければならないかもしれない。しかし、そうは言っても少なくとも「武蔵野」の面影は色濃く残っている。と、少なくとも僕は感じている。明治に国木田が感じた「武蔵野」と、令和に僕が感じるそれはとの間に差異があるということは間違いないが、それらは別物ではなく、同じ「武蔵野」が変化しているのだと僕は考えたい。「武蔵野」が変化しているのなら、明治に国木田が叙景したのと同じように、僕も令和の「武蔵野」を叙景したいという気持ちはある。しかし、それをするだけの観察力も、言葉も、僕は身につけられていないということを、国木田本人からに教えられたような気がするのである。

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少なくとも僕には、美しさの正体を見つけるための観察力と、それを描写するための言葉をゼロから生み出すことは不可能である。だから、それらを身につけるには先人によって描写されてきた数々の美しさに触れることからはじめるしかない。何かを伝えるための言葉を生み出すには、読むことから逃れられないのである。

次に帰省して武蔵野を歩くまでに、どれだけ読むことができるだろうか。机の横には、これから読むべき本がたくさん積まれている。

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