それを“自分”と呼んでいる
▶︎ 前回の ”それ”を避けることの終わり のつづき
そこにも追記したのだけど
いろいろなアクションを通して
避けている回避している“それ”って
自分そのもの
=自分と呼んでいる分離感
一体化している”この感覚”のことを
自分 って呼んでいる/定義している
その分離感を「自分」と呼び・認識していて、
様々な人間的な感覚・体験の総称
それを 自分 と呼んでいる
だから、この感覚からは
どうやったって逃げようがない
だって
「 そのもの 」
だから。
命 生 という現象そのもの
この 自分 って呼んでいるものを
正確に表現してみると
自分=分離感 であってそれを 自分 と呼んでいる“だけ”
非二元などでよくいわれている
「自分はいない」の所以でもある
自分 なんてどこにもいない
自分 って呼んでいるだけのそれを
よくよく観察してみる
それって 自分 っていうより
その感感を 自分 と呼んでいる
その感覚を 自分だ って言ってる
その感覚を 自分ってこれ って認識してる
って現象=自分。
その自分と呼んでいる“分離感”も
それも確かに全体(の一部)ではあるけれど、
ほんのわずかなパーツ 一部でしかない。
けれど、その一部をすべてである/自分である(それ以外はわたしではないっていう分離感とその認知)
そんなふうに部分的に機能している現象が
人間
という体験/現象。
先日みていた動画 で
こころ についてお話しされていたのだけど
肉体+魂 → こころ
というような表現されていたのだけど、
あくまですべて概念/憶測なのだけど
肉体という限定的な機能に
魂/意識が収まっているがゆえの
魂/意識の一部の機能が表れている
=こころ
というより、
こころのみならず、
さまざまな形状状態をした
意識の一部の表れの集合体
= これ
-おしらせ-
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