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ゴミみたいな文章を一度は読まなければならないことが、Twitterのデメリット

以前論じたのですが、現代は「言葉が過剰な時代」だと言うことができます。みんなが言葉を発信できるからです。一方インターネットが登場するまでは、文章を発信できたのは比較的頭のいいエリートに限られていました。

僕は基本的にこのような現在の言葉の状況は好ましいと考えています。というのも、特権的な人たちだけが関われた書き言葉の世界に、みんなが参加して議論できるようになったからです

各個人の視点から言葉が紡がれ、発信され、より良い世界が目指される――様々な価値観を持った他者と共生することが必要な現代社会において、望ましい言論の状況だと僕は思います。


一方で、誰しもが発信できる状況には負の側面があるわけです。それは、話し言葉の調子で書き込んでしまうがゆえに、「言葉の編集」がなおざりにされてしまうという側面です。

基本的に言葉は、自らの思考を他者へと伝えるための手段です。他者へと伝達するためには、相手が理解できるように思考を編集しなければなりません

これはTwitterの「つぶやき」であってもそうです。つぶやきとしての言葉には、自己自身との関係が本質的に内在しています。すなわち、つぶやきは最低限自分が理解できる言葉として紡がれるでしょう。


現在言葉をネットに書き込む際に、「一流ジャーナルに掲載する論文のように体裁を十分に整えています!」というくらい気合いを入れている人はほとんどいないでしょう。

カップラーメンみたいなインスタントな言葉(即席の言葉)が溢れています。3分すら考えてない人もかなり多いのでしょう。

Twitterの空間に滞在するということは、十分に整えられていない書き言葉を読まされてしまう状況に自分が身を置いているのだと自覚したほうがよさそうです。


僕が個人的に厄介だと思っているTwitterの性質は、ヤバい文章かどうかが一度読まなければ判断できないという性質です。

現実世界においては、明らかに頭がおかしそうな人に対して僕たちは慎重な姿勢になるでしょう。道を歩いているときに正面から「挙動がおかしい人」、「クサそうな人」が歩いてきたら身構えることができます。

けれども、Twitterでは一回は文字として向き合わなければなりません。このヤバい奴かどうかをきちんと向き合ってからでないと判断できないというTwitterの性質によって苦しんでいる人もいるのだと思います。

現実世界だったらヤバい奴と遭遇した際に自然と距離を取れても、TwitterのようなSNSだと正面から対応する必要があります。そのため、ヤバい奴のカオスな言葉を直接浴びさせられてしまうという困った事態が発生しているのです。


思考の材料

内省

インターネットの書き込み

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うぇい@哲学
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