感性の死と老い
最近は、以前より悩まなくなったような気がする。意識的な自覚としては「気がする」という程度だが、数ヶ月や数年単位で見てみれば、本当に悩まなくなったと言えるだろう。
ずっと、問いがなくなればいいと思っていた。
けれど今度は、問いがなくなってしまうのが怖いと思うようになった。
いよいよ大人になりつつあるのかもしれない。目に見える現象を疑うことなく、「現実」として受け止めるようになる。
ただ生存と繁殖に駆り立てられてゆく。
あの、列車にすし詰めにされたサラリーマン。あの、子ども以外にしか生存の価値を見出していない親。あの、スーパーで必死に買い物をする、ただ生命維持に努める老人。
いつの間にか彼らのように、僕は「幸せ」に暮らすようになるのだろうか。
感性は、可能性に結び付く。今ここでない「どこか」を開示する。
可能性が、すべて明示的な(現実的な)選択肢としてしか現れなくなったら、それは大人になったと言えるのだろう。
現実ではないどこかを思考する(志向する)うちは、このnoteに言葉を残しておこうと思う。僕がnoteをやめるのは、僕が「幸せ」になった時だ。
参考文献
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