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問うことが「自分にとって」何よりも重要である理由

問うことができるという特権

人は、問うこと(Fragen)ができます。対して、人間以外の存在者(Seiende)は問うことができません(ここでの存在者とは、事物的存在者=モノだけでなく、人間以外の生命体も含みます)。問うという可能性に開かれているという点で、存在的な優位(ontischer Vorrang)が人間にはあると言えるのです。

問いの経験による変容

問う者(die Fragenden)は、問われるもの(問いの対象:das Gefragte)との関係において変容します。なぜなら、問う者は、自分自身の存在において問われるものと関わり、問うからです。問う者が問うという仕方で存在すること(問うというあり方)を選ぶことによって初めて、問いを立てることができます。人は問うという可能性を有していますが、その可能性を選択し(その在り方を採用し)問いに巻き込まれるか否かはそのつど各人に委ねられています

問わなければならない理由

それではなぜ、問わなければならないのでしょうか。それは、問うことによってしか、現れるもの(Phänomenon)が見えるようにならないからです。

現れるものとは、自分に開示されるあらゆるものです。すなわち、他者、物理的存在、虚構的存在、抽象的存在、社会、意味、倫理など、自分に現れるすべてのものを指します

現れるものを見えるようにする(sehen lassen)のがロゴス(語りとしてのロゴス:Logos als Rede)です。すなわち、ロゴス(語りとしてのロゴス=言葉)によって人は現れるものを解釈すること(Auslegung)が可能になります。問うことは、問われるものの意味を問い質す(erfragen)ことです。

ここでの意味(Sinn)という語は、あるものを可能にさせる条件ないし基盤、根拠のことを指します。人は言葉を用い問うことで、自らに現れるものの意味を摑むことができるようになるのです。

問うことは「自分自身のために」重要

問うことは、自分にとって(他ならぬ自分自身にとって)何よりも重要です。なぜなら、問うことによってしか自己が現れないからです。

自己は、問う者としての自己が、問われるもの(問いの対象)としての自己を問い質すことによってようやく発見できる(entdecken)ものです。もし問わないのであれば、自己は現れず、自己以外の存在者との関係に没入してしまうでしょう。つまり「私とは何か」と問わなければ、ただぼんやりとした状態、なんとなくの理解のままの状態でしか自己が現れないのです

自己を問わずにやり過ごすことは、自らのあり方(自己の存在)を気遣わないことと言えます(実際は「問わないという仕方で存在するように気遣っている」のです...)。

先に述べたように、様々なあり方を選べる中で、問うというあり方を選ぶかどうかは当人に委ねられています。したがって、自己への真正な配慮(魂の配慮)とは、自己をめぐる問いの循環のうちで問い続けることを決める(entscheiden)ことなのです。(おわり)



以上、おまけとして「である」調を載せます。


 人は、問うこと(Fragen)ができる。対し、人間以外の存在者(Seiende)は問うことができない。ここでの存在者とは、事物的存在者(モノ)だけでなく、人間以外の生命体も含む。問うという可能性に開かれているという点で、存在的な優位(ontischer Vorrang)が人間には備わっている。
 問う者(die Fragenden)は、問われるもの(問いの対象:das Gefragte)との関係において変容する。なぜなら、問う者は、自身の存在において問われるものと関わり、問うからである。問う者が問うという仕方で存在すること(問うというあり方)を選ぶことによって初めて、問いを立てることができる。人は問うという可能性を有しているが、その可能性を選択し(その在り方を採用し)問いに巻き込まれるか否かは、そのつど各人に委ねられている。
 それではなぜ、問わなければならないのか。それは、問うことによってしか、現れるもの(Phänomenon)が見えるようにならないからである。現れるものとは、人に開示されるあらゆるものである。すなわち、他者、物理的存在、虚構的存在、抽象的存在、社会、意味、倫理など、人に現れるすべてのものを指す。そして、現れるものを見えるようにする(sehen lassen)のがロゴス(語りとしてのロゴス:Logos als Rede)である。すなわち、ロゴス(語りとしてのロゴス=言葉)によって人は現れるものを解釈すること(Auslegung)が可能になる。問うことは、問われるものの意味を問い質す(erfragen)ことである。ここでの意味(Sinn)という語は、あるものを可能にさせる条件ないし基盤、根拠のことを指す。人は言葉を用い問うことで、自らに現れるものの意味を摑むことができるようになるのだ。
 問うことは、自分にとって(他ならぬ自分自身にとって)何よりも重要である。なぜなら、問うことによってしか自己は現れないからである。自己は、問う者としての自己が、問われるもの(問いの対象)としての自己を問い質すことによってようやく発見できる(entdecken)ものである。もし問わないのであれば、自己は現れず、自己以外の存在者との関係に没入してしまうだろう。つまり「私とは何か」と問わなければ、漠然とした自己理解に留まり、自己が鮮明に現れることがないのである。問わずにやり過ごすことは、自らのあり方(自己の存在)を気遣わないということだ(実際は「問わないという仕方であるように気遣っている」と言えるのだが)。先に述べたように、様々なあり方の中で問うというあり方を選ぶかは当人に委ねられている。したがって、自己への真正な配慮(魂の配慮)とは、自己をめぐる問いの循環のうちで問い続けることを決める(entscheiden)ことなのである。


思考の材料

参考文献


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