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夢中で打ち込むという癒し――漫画『ボールルームへようこそ』×哲学詩『魂と舞踏』

“感情の乗ったダンスには
踊り手の人生が透けて見える”
―竹内友

『ボールルームへようこそ』の最新刊(11巻)が、約1年ぶりに出ました。ファン達は、首を長くして待っていたのではないでしょうか。わたしはkindleでの配信日、まさに日付が変わる0時過ぎに、一気読みしてしまいました。東京都民大会・A級戦の一コマ、10~11巻の流れがアツいです。以下、大いにネタバレを含みます。

『ボールルームへようこそ』東京都民大会・A級戦 あらすじ

主人公は社交ダンス歴約1年・中学生の富士田多々良君。男勝りのじゃじゃ馬、千夏ちゃんの踊りを乗りこなすべく、奮闘しています。

大会で激突するライバル、ベテランの釘宮方美氏。かつて正統派のダンサーとして一目おかれる存在でしたが、事故により怪我を負い、しばらくステージからの退場を余儀なくされました。リハビリを経て、今回は再デビュー戦となります。

<公式あらすじ>
熱戦続く、東京都民大会・A級戦もついに最終種目!
2人で踊る一体のダンスを会得し、会場の視線を集め出す多々良と千夏ペアに対し、かつての精巧さを取り戻し、最後までダンスへの執念を見せつける釘宮。そして注目の結果発表、優勝に選ばれたのは……。


華麗なる対立軸

本書のエピソードには二つの対立軸があります。

「勢いに乗る若手」 vs 「ベテランの執念」
「軽やかな進化」 vs  「重厚な伝統」

前者が多々良君、後者が釘宮氏です。読み手の立場によって、どちらに親近感を覚えるかは異なるでしょう。わたしは釘宮氏のほうです。事故での大怪我、挫折、再起を経験したひと。純な多々良君への嫉妬と矜持。時に地獄を見ながらも精巧さを追求し、ステージに立ち続ける姿勢。スポーツのように魅せる踊りが主流のなか、流行らないタイプのダンス。

人間くさい、屈折したところがあるキャラクターが好きなんです。まあ、きっとそれは、鏡を見ているようなものなんでしょう。

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軽やかに打ち込むという“癒し“

『ボールルームへようこそ』を読んで、わたしは、ふとヴァレリーの詩を思い浮かべました。踊り子を見ながら、哲学者たちが延々議論するイメージを。

ソクラテス “エリュクシマコスよ、わたしは君に訊いていたのだ、はたして治療法はあるのだろうか?と。”
エリュクシマコス “それほどまでに理にかなった病をなぜ治療するのです?たしかに、物事をありのままに見ることほど、それ自体としてこれ以上病的で、これ以上に自然に敵対する振舞は、何ひとつありはしない。”
(中略)
パイドロス “しかし、もし何か奇跡が起こってその観察者が突然舞踏に対する情熱にとり憑かれたとしたら、どうでしょう?…明晰であることを止めて軽快になろうと欲したとすれば。つまり、自分自身とは限りなく違う人間になろう、判断の自由を動きの自由に変えようと試みたとしたら?”
 ――ポール・ヴァレリー『魂と舞踏』より


ヴァレリーは「生きることへの倦怠」を、軽やかな動きによって克服しようとした。それが根治療法でなかったとしても、なるほど、何かに夢中になり、我を忘れさせてくれる瞬間は、どこか癒しがあります。例えば、このnoteに文を打ち込む作業も、きっとその一つでしょう。

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