意味分節理論応用編(3) 深層でも表層でもなく言葉を裏返す「比喩」の力 -見田宗介著『宮沢賢治』を読む
中沢新一氏の『カイエ・ソバージュII 熊から王へ』に、次の一節がある。
ここでいう「結合」される「違う分野」とは、例えば、動物と人間とか、生者と死者とか、男と女とか、太陽と月とか、天と地とか、海と陸とか、昼と夜とか、夏と冬など、はっきりと区別され、混じり合ったり区別できなくなったりすることは絶対にあり得ないような、対立し合うふたつの領域でもある。
この対立するふたつの分野を対立させたままひとつに”結合”するのが比喩である。
人間も動物である
死者こそ真の生者である
生者は明日の死者である
正午の浜辺のような夜
…などと言われると、なにやらとても深〜いコトを言われているような気がしてくる。
私たちは日々、誰かの言葉を聞いたり呼んだりしては、「深いな〜」などということがあるが、そういう場合、よく調べてみると、たいがい互いに区別され対立する二つの領域が、言葉によって結合されている。
それこそSNSでバスっている言葉なども、よくみるとこの”対立する両極をショートする”表現になっている場合がある。
比喩や、比喩と比喩の比喩を織り重ねていく詩の言葉は、「違う分野を結合」することによっている。
ここで中沢新一氏は次のようにも書かれている。
日常言語と詩的言語は異なるものである。
日常言語だけをみて、それを言葉ということのすべてだと思ってはいけない。
日常言語は”人間は人間であって、他の動物とは違う。こんなことは言うまでもない”といった類の言い方をする。
ざるそばかもりそばか
敵か味方か
互いにはっきり分かれて固まったあれこれのうちの、どれを選ぶか。
分けて、選ぶ。その作業のために日常の言葉は使われる。
もちろんこれも言葉である。
しかし、言葉はそれだけではない。
* *
見田宗介氏の著書に『宮沢賢治 ー存在の祭りの中へ』という一冊がある。
冒頭、宮沢賢治の詩「青森挽歌」の”りんごの中を走る汽車(に乗っている私)”から、見田氏の読みが始まる。
宮沢賢治の描く主人公たちは、日常でははっきり区別され、分離され、対立させられている二つの領域、二つの世界、二つの極の隙間に入り込みー迷い込み、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動する。
詩のことばを綴る”わたし”の手のなかにある「りんご」は、「とじられた球体の「裏」と「表」の、つまり内部と外部の反転することの可能な、四次元世界の模型のようなもの」である(『宮沢賢治 ー存在の祭りの中へ』p.5)。
表と裏、内部と外部。はっきり区別され混じり合うことなく分離されている二つのことの間をつなぎ、接続し、往来を可能にする媒体として、この場合”りんご”がある。
○ / ●
この「りんご」に限らず、宮沢賢治の描く世界には、人間と動物であるとか、天と地、現在と過去、生者の世界と死者の世界のような、日常の表層でははっきりと区別され、鋭く対立する二つの領域の間に迷い込んだり自ら赴いたりする者が登場する。
銀河鉄道のジョバンニや、夜鷹の星のよたか、注文の多い料理店に入り込んでしまった客などが、そうである。
この主人公たちは、通常日常は、はっきりと区別され対立し、混じり合うことのない二つの世界の一応どちらか一方の住人なのだけれども、ふとした弾みに自分の世界とは対立する世界の方へと迷い込んでしまったり、あるいは、自分が生まれその中に生きる世界を縁遠いものと感じ、そこから排除されていると感じ、無意識のうちに惹かれているうちに、気がついたら「向こう」を訪ねていた、という者たちである。
見田宗介氏の『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』の中から、次の一節に注目してみよう。『銀河鉄道の夜』の”さそりの火”の話である。
宇宙の全体 / 宇宙の一隅
闇 / 光
一隅の光が全体の闇を、微かに微かに照らす。
闇と光が、絶望的に断絶しつつ区別されつつ「照らす」ことにおいて、一瞬結ばれる。全体と一隅が「照らす=照らされる」ことにおいてかすかにつながる。
この光と闇の結びつき、一隅と全体の結びつき。
ここで意味を分節する二項関係の両極に隔てられた項と項が、「照らす」という動きによって二つのまま一つに結びつきつながる。もちろん繋がったといってもあくまでも二つのままである。区別そのものが消えてしまうようなことはない。
この両極が一つになった「闇を照らす光」「全体を照らす一隅」こそが、両義的媒介者の位置を占める。この両義的媒介者を転回点にして、何かが何かを意味し何かを意味しないという意味分節の最小構成である四項関係が、グルリとひっくり返ったり、ぐにゃりと曲がったりする。二つの二項関係を重ね合わせる向きが変わることになれば、表層の意味分節システムもまたガチャガチャと組み変わる。
次に示すのは『春と修羅』をめぐる一節である。
遍在する-闇 と 孤独な-光=”近代の自我”
偏在する-光 と 孤独な-闇=”賢治の修羅としての自我”
この後者の対立関係における自我は「宇宙に散乱反射する光の中に、黒くえぐられたひとつの欠如」でもある(p.170)。自我が、世界を照らす光というよりも、むしろ闇として際立ってくる。
光 と 闇
生の世界 と 死の世界
闇に取り囲まれる小さな光 と 取り囲む闇=死
ここで「自我」ということを、前者の系列から、後者の系列へと付け替える。
自我の置き換え先が、光から闇へとひっくり返る。
同時に他方で、世界は闇から光の方へとひっくり返る。
はっきり区別され対立する二極の間を一方から他方へと移動したり、両極のあいだを行ったり来たりする主人公は、レヴィ=ストロースの神話論理における両義的な媒介者である。
神話に登場する両義的媒介者は、例えば天と地の間を移動したり、行ったり来たりすることで、天と地をはっきり分離しつつ、付かず離れずに結びつけもする、分けつつ繋ぐ作用をする。
分けているのか、繋いでいるのか?
両方である。分けつつ繋ぐ、繋ぎつつ分ける。
分けるでもなく繋ぐでもなく、といったほうがよいかもしれない。
中沢新一氏が『カイエ・ソバージュII 熊から王へ』で取り上げているように、宮沢賢治の作品には、レヴィ=ストロースのいう神話論理のアルゴリズムでその発生を記述される構造的幻影が表れている。それは「野生の思考」の表われであるともいえる。
深層にも、深い浅いの区別がある
深層意味論からすると、言語による思考には二つの究極的な姿がある。
第一の極にある思考は、二項対立関係をいくつもいくつも精密に積み重ねたり折り上げたりし続けながら、どこかで不意に、ふと、ほとんどそれとわからないような両義的媒介項を挟み込んでは対立関係の対立関係からなる構造全体を動かして、従来にはない「ひねり」を加えようとする。
従来は「分からなかった=分けられなかった」ことを、新たに「わかるように=分けられるように」する創造的な思考はしばしばこのパターンである。
さまざまなことの起源を説明しようとする神話の思考もまたこのパターンである。
日常の言葉や、古くから受け継がれている言葉をほとんどそのまま繰り返しながらも、あいだにときどきところどころ両義的媒介項(表層では真逆に鋭く対立する二つの極をひとつに合体させたようなもの)をはさむ。そこでこれまでの話とは主役が交代したり、主客がひっくり返ったり、視点が変わったりする。
神話の言葉、詩の言葉、表層と深層が裏表でぴったりくっついて、どちらかどちらか区別できない薄い膜の上を走る分節線たちの物語である。
第二に、他方の極にある思考は、二項対立関係の対立関係を発生しつつある永遠に未完の、静止することのないプロセスの影のようなものとみる。そこでは全ての項が最初から両義的媒介項として動いており、すべてがすべてと一にあらず二にあらずであるかのように思考がなされる。これは思考というよりも、思考以上であり、思考の前段であるといったほうがよいかもしれない。
なお、この二つとは別に、それ自体最初から固まっているものとして導入される二項対立関係たちをひたすら重ねていくパターンのいわゆる”思考”もあるが、これは意味の深層ではなく意味の表層の日常の言葉である。
*
私たちが現にあるひとつの社会や時代を生きる者として、日常を暮らしつつ、何かを考えたり考えなかったりする中では、3.の「表層」で対立しながら固まっているものたちのどれを選ぶか、どちらを選ぶかということでほぼことが済む。
しかし、しばしばどうしても固まった対立のどちらかを選ぼうにも選べない、選びたくもない、選びようがない、選ばせてもらえない、といった事態が訪れる。そのとき、人によっては2.第一の深層の思考の世界へ入り込む場合があり、また3.第二の深層の思考へと突入していく場合もある。
とはいえ、我々人類が、それまでの表層の日常から、いきなり第二の「すべてが両義的媒介項」の世界に入り込むのは難しい。入り込むだけならまだいけるかもしれないが、入り込んだところから、また表層に帰ってくるというのが極めて難しい。表層の固定した二項対立の対立を生きながら、同時に”全てが両義的媒介項で二項対立の両極はすべて二にして一である”と見ていく無量の”眼”を並列処理するには訓練が必要になる。
私たちが表層の自我を保ちつつできることといえば、第一の思考と第二の思考の間で両義的媒介項の量を、数を、適量に調整することだろう。
日常の言葉たちが織りなす二項関係の関係の関係の中に、両義的媒介項を、時に増やし、時に減らし、増やし過ぎず、減らし過ぎず。
一足飛びに「すべては両義的媒介項で、全ての項は本不生、全ての項目は不可得」というところまで行ってしまわずに、表層の直下の深層で、最少用量の両義的媒介項の”結合”の動きを走らせる。そうして深層の二項対立関係の対立関係としての四項関係が少し動き、ときには表層の四項関係も少し動く。宮沢賢治の書いた詩の言葉たちには、そういう深層が表層にふれる渚のようなものをみることができる。
* *
深層が表層にふれる渚
ここで思い出すのは空海の『秘密曼荼羅十住心論』である(ちなみに宮沢賢治は浄土真宗の教えや法華経に親しんでいた)。華厳法界の曼荼羅のひとつでありながら、そのことを知らない無明のままにある”心”が、表層から深層へ、深層の一番底から深層と表層の区別すらなくなるところまで、十の姿へと多重に分節しながら降下=上昇していく、という話を思い出す。
十住心論では人間の「心」(≒こころ)が自身をそこに含む世界をどう見ることができるか、心によるものの見方の十のパターンが論じられる。
”ものの見方”というと漠然としてしまうが、これを存在分節=言語的意味分節の体系の組み立て方と言い換えてみよう。
存在分節=言語的意味分節とはどういうことかといえば、煎じつめると、私たち人間の心は、無意識から意識へと立ち上ってくる目の前の現象を、対立関係のペアとして見るということである。
これがどういうことかといえば、私たちの身体はある何かXを非-Xと区別・分節する。ここでXがXであるのは、Xが非-Xではないということである。Xとは非-非-Xである。Xと非Xはこれを区別する=分節する=切り分ける動きによって、その動きの効果というか、分ける動きに対するその影のようななにかとして、分ける動きとともに浮かび上がってくる。
Xと非-Xのペア=対立関係は、Xなるものと、非-Xなるものが、それぞれ個別にあらかじめ転がっているものが、あとから何かの弾みでグループになりました、という代物ではない。分ける動き=分けつつつなぐ動きより前に、あらかじめXなるものや、非-Xなるものが、それ自体として転がっているワケではない。
こういうXと非-Xを分けつつつなぐ動きは、ひとつではなく複数である。それもあらかじめバリエーションが決定されているものではなく、無量無数にいくらでも動き方のパターンが増えていく。
とはいえ、動きがホンモノで、影がニセモノ、というわけでもない。
ホンモノとニセモノを分けて、動きと影を分けて、この二つの対立関係をどちら向きで重ねて固めましょうか、という話は人間の「心」にとっての問題である。それについてはどちら向きで重ねてもいいし、重ねたものを固めてもいいし固めなくてもいい、というのが妥当な答えである。
分ける動きでもなければ、固まった項でもない。
本物でもなければ偽物でもない。
二項は、分かれているでもなく、繋がっているでもない。
二項は、二つでもなく、一つでもない。
*
そうしたところでえ、仮にXと非-Xと、Zと非-Z、と書くが、付かず離れず=分かれつつ繋がる二項のペアがさらにペアになって四項の関係が施設される。
X / 非-X
| |
Z / 非-Z
こういう具合の四項からなる枠が、私たちにとっての存在分節(何が「あるもの」で、何が「ないもの」かを分けること)を現実に可能にしているし、言語的意味分節(何があり/なにがないか、なにがありえることで/なにがありえないことか、何が好きで/何が嫌いか、何が強くて/何が弱いか、何が永遠で/何が束の間のものか、何を信じ/何を信じないか、何に意味があると思い/何に意味がないと思うか、などなど、あらゆる言葉による「意味づけ」)も可能にしている。
私たちが、日々何気なく「○○は**である」などと言ったり書いたりする時、そこには必ず四項関係が隠れ動いている。分けつつ繋ぎ繋ぎつつ分けるように動いている。
○○ / 非-○○
は は
** / 非-**
である である
例えば、ある兄弟が田舎に帰省したところへ滅多に会わない親戚の親父がやってきて、「弟くんは本当に優秀だなあ」などというとする。この言い方に対して兄貴の方が「オレはダメだというのか!」と内心つよい怒りを覚える、などということがある。
オヤジは「弟くん は 優秀 である」としか言っておらず、「兄貴 は ダメ である」などとは一言も言っていない。それであるにも関わらず、「弟くんは本当に優秀だなあ」という一言が、言外に「兄貴はダメだなあ」を意味してしまうことがある。
これは要するに、「○○は**である」は「非-○○は非-**である」と必ずセットになっており、弟といえば兄、優秀といえば非優秀、という具合に自動的に対立関係にあるペアの相手方の方を呼び出して、振り分けてしまうためである。
* *
とはいえ、そういう言葉もまた、すべて上記のような四項関係を分けつつ結びつける動きが、それ自体としては何の意味もなく、いかなる価値からも自由に、勝手自在に動いている以上のことではない。
○○ / 非-○○
は は
** / 非-**
である である
前面に迫り出してくるイメージの向こうに、それ自体としては容易には形象化されない四項関係それ自体の動きを透視する「目」を育てること。
一度分けたらそのまま固めてしまう日常の表層の言葉たちの詩的な組み直しの中に、表層の直下で、その裏側で動く象徴言語の”分けつつつなぐ”躍動の影を浮かび上がらせること。
あるいは夢の中で聞こえてくるおぞましい悪意たちの声の向こうに、それ自体としては決して表層の言葉を口にすることはない四項関係の「声」を聞く「耳」を育てること。
十住心論に登場する十の「心」を、私たちにも馴染みのある「こころ」という言葉ということにして”創造的に読む”と、まさにこの四項関係の動きが動く決して聞こえない声を聞く耳を、四項関係の動きが見せる決して見えないイメージを見るための耳を、段階的に開発構築していく、その方法についてのストーリーが浮かび上がってくる。
四項関係の開き方、動かし方を学ぶ、その出発点となるのが異生羝羊心である。
異生羝羊心とは、私が読むところでは「自分」という項が、「自分」と「自分以外」とを区別する動きを通じて絶えず作られているのだということに思い至らず、「自分以外」を、「自分」を脅かすものか、さもなければ「自分」の材料や自分の付属品としてしか意味付けられない心である。
これは表層の言葉、日常の言葉が、私たちをリアルに強く奮い立たせ、戦いへと赴かせようとするときの姿である。
ここからスタートして、まず”じぶん”の輪郭を解いていき、”じぶん”と”非-じぶん”の区別を自在に柔らかくし、じぶんとじぶん以外との区別がまさにそのように区別されたから現れた影なのだと、プロセスを十の分節の組み方を結びながら知っていく(これを全部マスターした知性が般若心経に登場する”阿耨多羅三藐三菩提”と呼ばれるらしい)。
*
私たちにとって、日々を生きながら、同時に自分たちが生きる世界の意味を、価値を「ひっくりかえす」ことは容易ではない。
有 と 無
絶対的な肯定 と 絶対的な否定
最上の価値 と 最低の価値
これらの二項対立のうち、自分自身の生命や、自分が大切に思うひとりのひとの生命などと結びつく項を前者の方から後者の方へ、あっさりと転回することなどまったく論外に思われる。
* *
意味分節システムが二項対立関係のペアを重ねる向きを自在にひっくり返すことができるのはなぜかといえば、そもそも項というものを、それがいかなる項であれ、それ自体として「自性」をもって即自的に存在している訳ではない(無自性)と考えるからである。
ある項がその項であるのは、それがそれと対立する他の項と分けられているから、分節されているから、区別されているから、区切り出されているから、である。項はこの分ける動きの影のようなものであって、分ける動き、分節する動きが止まって仕舞えば、いかなる項もまた何事もなかったように霧消する。
分かれ、固まる。分かれたままになる。分かれたことを忘れる
区別する動きの影として出現した項が、分節する動きが動いてこその効果であり、その動きの影であるということを忘れてしまって、項それ自体があらかじめそれ自体として自ずからあったと思い込むことを「執着」と呼んでおこう。
この執着を捨てる、ということが、普通に生きる私たちにとっては簡単なことではない。あるいは身近な何かへの種着を捨てたつもりで、かえって異形の概念への執着に固まってしまったりすることもある。さらには、執着しない、無執着であるということへの執着もありうる。
執着を離れるには、四項関係を発生させる動きの”分け方”と、”固め方”自体を冷徹に観察できる「心」が必要になる。
*
ここで改めて見田氏の『宮沢賢治』に戻ってみよう。
「個別の生命への執着」(p.153)を捨てるところにまで至るためには、自我とその外部、生とその外部とを区別し、対立させ、その対立を固めてしまう、自我なるもの生なるもの、自我ならぬもの、死なるものがまるで自性をもって存在するかのように固めてしまう存在分節=言語的意味分節の癖のようなもの(業といったほうがよいか)を柔らかくして解くことができる見方、「心」を生きる必要がある。
見田氏が”社会の価値の序列”と書かれていることを”表層の意味分節”と読んでみよう。その表層のすぐ裏側に、表層と不可分の深層の最上部に、流れる渦のようなパターンと渦のようなパターンではないところの差異を示しつつ動く、分割線・境界線の束のようなことを幻視し、その境界線で囲われた渦を動くコトであると知りつつ、仮に止まったモノだということにして声を発し、文字を刻む。それが人の存在分節=言語的意味分節、即ち「記述すること」のはじまりである。
この「不可分の流れ」そのものを”そのまま直接”記述する、ということはできない。というかそういう言い方は成り立たない。記述するコト自体が分けることであり、分かれていないことを分けてしまっては、もう分かれていない姿そのものとは言えない。上の一節からしてそうである。動いているとか止まっているとか、パターンであるとかないとか、存在か生成かとか、言葉ではそのように言う以外にない。
それでは、ということで、言葉にすること、記述すること、分節すること、境界線を幻視すること自体を虚妄(ウソ、ほんとうではない)であるとしてこれを遠ざける道もある。
一方で、虚妄であるか虚妄でないか、ウソかホントか、などと”言う”コト自体が二つに分けてカタマリを固める所業であると気づくひともいる。ある意味で嘘を遠ざけるよりもさらに冷徹に、人間において(人間の心において)、「なに」が分かれ出てくるのか、「どう」分かれ出てくるのか、ということを徹底的に観察する道もある。しかもその道の先には、ナニガドウ分かれ出てたり出なかったりするのかを、分かれつつ分かれきっていないいわゆる言葉とは異なる異形の言葉で、、動きと静止のどちらでもあってどちらでもないコトバで、「記述」してしまおうとする驚異的な精神もある。
◇
分ける、か、分けないか。
分かる、か、分からないか。
このような両者をはっきり分けて固めた上で、どちらか一方を選ぶというのではなく、仮に一応分けられたとして、どう分けて、どこを仮に固めると、なにが見えてくるか=どう分節できるか、ということを極めて抽象的な概念だけからなる二項対立関係の対立関係のモデルを使って記述=分節する。
そうして、どう分節したとしても、それは数ある無量の分節のうちのひとつふたつでしかないということで、どちらかの極に癒着してしまわないこと。
仮に、一応
表層の言葉も、表層の裏側の言葉も、深層の言葉も、最深層のコトバも、どれをとっても一応の仮である。
ぞれぞれの仮、ぞれぞれの一応で、それ以外のやり方では見えない何かが見える、ということも変わらない。「分節する」の方はある意味でひとつ、仮に一応数えれば一つ。ただし止まることなく動く「一」、分節するよう動くという動き方において一。ものとしての一ではなく、こととしての一。
どう分節するか。その「どう」には無量のパターンがあり得る。
その中で、表層をかなぐり捨てる必要もないし崇め奉る必要もないし、深層を恐れる必要もないし、深層を崇め奉る必要もない。
・・・・・
こういうコトバの姿を、声だけの時代を遠く離れて、声を固定する文字を持ち、固定された文字を大量に複製し機械をもち、電子的な文字の像をいつでもどこでもリアルタイムに出現させる技術を駆使するわたしたちの時代のメディア・テクノロジーの中に蘇らせることができたなら、現生人類は神話時代のレベルの創造性を復活させることができるだろう。
映画以来、今日に至る技術革新を通じて描かれたイメージが動けるようになったように、言葉も動けるようになる場所があるとよい。ここでいう言葉がうごくというのは、二項対立関係の対立関係を区切り出しつつ結びつける動きがうごくということであり、それは詩の言葉がやってきたことである。
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