見出し画像

二分心とは何か? - ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む

ジュリアン・ジェインズ氏の『神々の沈黙』引き続き読む。

ーー追記ーー

スクリーンショット 2021-08-30 18.04.16

本記事をご覧くださった皆さま、ありがとうございますm(_ _)m

ーー追記ここまでーー


今回はいよいよ「二分心」についてである。

二分心とは何か?

ジェインズ氏の仮説は次の通りである。

「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分二分されていた[…]どちらの部分も意識されなかった」(『神々の沈黙』p.109)

心のうちの「神」と呼ばれる部分が、「人間」と呼ばれる部分に「命令を下す」という。心のうち?神?人間と呼ばれる部分?命令?いったいどういうことだろうか?!

以下、二分心について、それがどういう精神構造なのか、二分心はいつ頃始まったのか、いつ頃崩壊し始めたのか、といった三点をまとめてみよう。

人間と呼ばれる部分

最初に気をつけておきたいのは、この「人間」と呼ばれる部分についてである。

ジェインズ氏が「人間」ではなく、わざわざ「人間と呼ばれる部分」と書いたのには訳がある。

それはこの二分心の「人間と呼ばれる部分」が、今日の私たちが「意識」している「私は人間だ」ということとはまったく違うものだということを示すためである。

二分心の「人間と呼ばれる部分」を、今日の私たちの「身近なもので考えようとしても、言えることはないに等しい」とジェインズ氏は注意を促す(『神々の沈黙』p.109)。

「[…]重要な仮説は、意識に先立って幻聴に基づいた全く別の精神構造があったというものだ。」(『神々の沈黙』p.546)

これに対して、今日現在の私たちが「人間である」という場合の「人間」は、「意識がある」ということとほとんど同義になっている

そしてこの私たちが人間そのものだと思っている「意識」というものが、実は「二分心」の「幻聴に基づいた(意識とは)全く別の精神構造」が「崩壊」した後に残された言語の比喩の力が生み出した例え話なのだというのがジェインズ氏の説である。

この比喩としての意識、例え話としての意識については、前回の記事に書いているので、参考になさってください。

二分心とはどういう精神構造か?

今日の「意識」で生きる私たちは、二分心時代の祖先が残した貴重な記録を通じて、古代の心の「神」と呼ばれる部分と「人間」と呼ばれる部分との関係をうかがい知ることができるという。

その一つが古代ギリシアのホメーロスによって記されたと伝えられる『イーリアス』である。

『イーリアス』の登場人物について、ジェインズ氏は次のように書く。

「行動は、はっきり意識された計画や理由や動機に基づいてではなく神々の行動と言葉によって開始される。」(『神々の沈黙』p.96)

行動の「理由」や「計画」をあれこれと言葉を並べて説明しつつ自分がその「主語」の位置に滑り込むような「意識」が描かれていないというのである。ジェインズ氏は続ける。

「そもそもこの叙事詩自体が、現代人の感覚に当てはまるような人間の手になるものではない[…]。叙事詩全体は、アガメムノンが統治した時代の遺跡で、恍惚となった吟遊詩人が「耳にして」鉄器時代の聴衆に朗誦した女神の歌だ。[…]この叙事詩は意識的に創作されたものでも記憶されたものでもなく、ピアニストが即興演奏するように無意識のうちに次から次へと創造的に変更が加えられたものなのだ。」(『神々の沈黙』p.97)

「この叙事詩自体が、現代人の感覚に当てはまるような人間の手になるものではない」というのはつまり、「意識」を持った著者が、「意識」を持った主人公たちの葛藤や思案や悩みや勇気を描いたものではないということだ。

この叙事詩は意識ある人が意識ある人のことを物語にしたものではなく、「吟遊詩人が「耳にして」鉄器時代の聴衆に朗誦した女神の歌」である。この「耳にして」というところが非常に重要である。まさに文字通り「耳にした」「聞いた」「聞こえた」というのである。

ジェインズ氏は『イーリアス』にある次の一節に注目する。

だが、なぜ私の心はこのようなことを私に訴えてくるのだろう」(『神々の沈黙』p.109)

私の心が、私に訴えてくる。「私」の中で、喋りかけてくる人と聞いている人が、別々なのである。

「人々をロボットのように操り、その口を通して叙事詩を歌い上げた、この神々とは何者なのか。彼らの正体は人間が聞いた声であり、『イーリアス』の英雄たちはその言葉と指示をはっきりと聞き取ったのだった。その鮮明さにかけては、ある種の癲癇患者や統合失調症患者が聞く声や、ジャンヌ・ダルクが聞いた様々な神々の声に少しも劣らない。神々は中枢神経系の産物で[…]ペルソナと呼んで差し支えなく、親のような心象あるいは訓戒する心象が混ざり合ったものだ。」(『神々の沈黙』pp.97-98)

この一節は非常に密度が濃い部分である。

ここから先は

7,013字

¥ 250

期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が参加している募集

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。