国土と神 読書メモ:中沢新一『精霊の王』
国土が出来上がる前からの神
中沢新一氏の数ある著書の中でも、私はこの『精霊の王』をとても気に入ってる。
この本は「シャグジ、ミシャグジ」あるいは宿神などという呼び名をもった神というか、精霊の話である。
人間の精神の言葉で語ってしまうが故に、神や精霊というものを呼び出さざるを得ない働き。人類が人類らしい姿にまで進化したその時から、連綿と精霊的なもののことが語られてきたのであろう。
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神や精霊の姿、というか「あり方」にはいくつかのパターンがある。神や精霊が今日の私たちが知るようなものへと劇的に進化した、というか変化したきっかけは「国家」の誕生にあるという。
差異が際立つのは、国家誕生後の神と、国家誕生以前からの神の区別である。
国家誕生とともに「国家を作った神々」のことが語られ、記憶されるようになる。国家を作った神々は、定められた確固たる国土の繁栄を守り続けるよう期待され、祈りを捧げられる。
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その一方で、国家の国土となった全国津々浦々に、国家誕生以前から息づいてた神々もいたはずである。その神々は国家から「非公式」のものとされ、神と名乗ることもできなくなり、妖怪のようなものになった挙げ句、地域の人々にも忘れられる。
あるいはその姿をおおっぴらにすることなく、うまい具合に隠れ、生き続けた建国以前の神々も居る。本書はそうした神の痕跡をめぐる一冊である。
創造の空間に棲む神
「精霊の王」たる宿神、シャグジは、その後に顕現したたくさんの神仏と比べて、際立って異色であるという。
宿神について中沢氏は次のように記す。
シャグジは「創造の空間」に棲むことによって、制度や体系を維持する働きの側につくことがなかった。[…]ひとつの世界を立ち上がらせていくことのできる「構成的権力」は、制度や体系の背後に潜んで、背後から秩序の世界を揺り動かし、励起し、停滞と安定に向かおうとするものを変化と創造へと、かりたてていくことができるのだ。p.viii
ゼロから創造すること、創造ということが可能になる時空間自体を開くこと。
それは、すでに出来上がったものを固め守ることと、協同で働くこともあれば、鋭く対立することもある。
圧倒的な創造力は、既存の出来上がったものをあっさりと破壊してしまう力にもなるからだ。
私たちの社会は、私たちひとりひとりの経験においては、きわめてしばしば「予め出来上がって、とうの昔に完成している」という顔をして現れてくる。
子供が発する幾多の疑問が、「決まったことだ」「そういうものだ」という何も答えていない答えによって、後につながる言葉を断ち切られてきた。この言葉、そういうものだ、を繰り返しつづけることで、それは本当にそういうもの、になる。
創造の神が生きる空間は、すでに出来上がっている社会の中では、きわめて慎重に、腫れ物に触るように管理される。
確固たる存在もまた、ゆらぎをはらんだ再生産の痕跡
ところが、よく考えてみると次のことに気づく。
完成済で確固たるものに見える代物たちが、実は常に作り直され続けることで体裁を保っているということ。
つまり再生産プロセスの産物であること。
それはいつもゆらぎ、剥がれ削れ落ち崩壊へと向かいつつある動きでありながら、同時に、日々作り直されている。
それはちょうど私たちの身体や臓器を構成するタンパク質たちのようなものである。
生命のシステムは自らとその外部を区別し、境界を再生産しつづけている間のみ、つかの間、生き続ける。
自他を、内外を、区別しつつ結びつけることをやめてしまったとき、システムはシステムでなくなる。
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国家の神々は、その多くが完成済のものたちを守り伝えることに力を発揮する。偉大な始原に始まる国土、そこにあふれる豊かな物たちが、脈々と受け継がれているということを、後から生まれた建国者の遠い子孫たちに教え、思い出させるために、神々は完成された世界のことを語る。
一方で、ゆらぎ、壊れ、また作り出す。そうした過程と、その過程が動く時空間にもまた神がいる。その神はゆらぎが人間の世界の外から人間の世界の中へと伝わる瞬間に、その境界を開いたり閉じたりする。この神の性格について中沢氏は次のように書いている。
国家を持たない社会の人々は、人間の能力を超えた「超越的主権」のありかを、人間のつくる社会の外部に見出そうとした。これは国家がつくられる以前の、新石器的思考の特徴をよく示している。「超越的主権」というものが、王の存在を通じて社会の内部に持ち込まれてくるとき、そこに国家が生まれる。[…]縄文的な社会においては、「世界の中心」たる真実の王は、社会の外に居る。それは境界の外から人間社会の内部にやってくるものでなければならない。p.208
縄文的、という言葉が登場するが、この本の最後の方で中沢氏がふれているように、縄文的なものはいわゆる「縄文人」に固有のものというよりも、国家を持たない人々に普遍的に見られるものであり、ユーラシア大陸から渡来した部族、おそらく彼の地に新しく生まれようとしている国家によって追われた人々もまた、国家以前の、社会の外にある創造力という思想を携えてきたとも考えられる。
荒ぶる土地
古代、まだ国家の時空間が国土を覆うより以前、ひとびとは建国者によって切り分けられ意味づけられた出来合いの空間に「後から」参与するという生き方を許されなかった。
眼の前で現れたり消えたり、出来上がったり壊れたりする世界。そうした生死のさざなみのような空間にどっぷり浸かって生きることが日常であったころ。
ゆらぎうごめく力がみなぎる時空の上に、かろうじて自分たちの部族の世界を崩壊の際から再建しつづけること。そのための力を授けてくれる神が求められたわけである。
おわりに
ところで興味深いのは、日本という国は、その国土に対して、放っておいてもそのまま持続するだろう、という安易な期待をしない点で際立っている。
国土をどろどろと揺れ動くものと捉え、その動きとうまい具合に折り合いをつけて、それでいて自然に飲み込まれることなく、人間の領分を確保しておこうという配慮。皇居の森、あるいは全国津々浦々の鎮守の森は国家が存在しないところでゼロから国家を作り始めた精神の痕跡と言えるかもしれない。
所与性に対する安易な期待を退けているところが、この国の、国家の、その中枢の、その「神」との通路の開き方の、実におもしろいところである。
圧倒的な解体作用を通じて壊れ、溶け出し、やがて森にかえってしまうこと。それを見通した上で、再建し続ける「営み」を予めプログラムしてある。
このあたりの話はようやく読み終わりつつある井筒俊彦氏の『言語と呪術』でも、最後にさらりと触れられている。
言葉が呪術的に存在をしばり、それとして出現され、そのままの姿でいるように呪縛する。
その呪縛する力は、なによりもリズム、繰り返し繰り返し同じ言葉を強く強く反復し続け、周囲の「その他」すべてから際立たせるときに動く。
この国の言葉は、どれだけ装っても、出来合いのものをそのまま描写する道具になりきることはできないのかもしれない。
私たちの言葉は、いつもいつも同じように、呪文を繰り返し、それによって自分たちの部族の世界、あるいは国土を、再生し続けようとしている。
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そうであればこそ、軽快に比喩にのって言葉を繋いでいくことをやめてはならないのである。
おわり