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森と人、こころと魂−岩田慶治著『アニミズム時代』を読む

岩田慶治氏の『アニミズム時代』をひきつづき読んでいると、「森の思想・森の生き方」という章で次のような一節に出会う。

岩田慶治氏が、文明の袋小路を逃れ「やり直す」ために、「身体からこころへ、こころからへ」と戻っていく必要があると論じる下りである。そこに次の一節である。

こころと魂

こころの世界は二元的で、形がある。海と山、善と悪、子どもと老人、男と女の差違と葛藤がある。」(岩田慶治『アニミズム時代』p.243)

「こころ」は二元的である。それに対して「魂」は一元的であるという。

の世界は一元的で、形がない。名前のない世界だ、そこはもろもろの形の「もと」だ。(岩田慶治『アニミズム時代』p.243)

「身体」「こころ」「魂」、この区別が重要だ。

身体というのは、私たちの生身の身体ということである。

そして「こころ」。

「こころ」は「二元的」な世界である。

「こころ」は世界を対立関係にある事物からなるものと感じ考える。

こころにとっての世界には善と悪があり、幸福と不幸があり、男と女がある。その互いに違うものとして区別されつつペアになったものたちの間の、緊張とぶつかりあい、綱引きと衝突がこころにとっての世界である

私たちの日常の意識は、たいがいこの「こころ」の世界に掴み取られていて、二項対立のどちらかに立っては争ったり、主張したり、交渉したり、妥協したり、打ちのめされたり、途方に暮れたりする。

この「こころ」に対して、「こころ」とは別に、「魂」がある。

魂、タマシイとはなにか?

岩田慶治氏は、魂を「もろもろの形の「もと」」であるとする。

魂という一元的な「もと」。

そこから、形が生まれる。

海、山、善、悪、子ども、老人、男、女、などなど様々な形は単一の「もと」から生じる。

この単一「もと」から様々な形が生じるときの生じ方はどうなっているのだろうか?

一元的なものを二元的に変換する

それを区切り、区別し、線を引く動き、動きのパターンとしてあると考えてみるのはどうだろうか。

「もと」の中に、なにか山の種だったり、老人の種だったりが隠れているのではない。「もと」は単一であって、そこには予めほかから区別されたものはない。ほかとは異なるあるものは「形」として、「もと」に「線を引く」働きを通じて生み出される。

ここでいう「線を引く」動きは「こころ」の働きであると考えてよいだろう。「こころ」は区別をする働きであり、その働きは数十億年前の原始の誕生時以来、自他を区別する作用の反復として存在しつづけている生命の本質的な傾向である。

「こころ」は区別をする動きのパターン、区別のやり方の規則の集まりである。即ち「こころ」は内と外、自分と他者をあるコードに基づいて識別・区別する情報処理システムなのである。情報学やコミュニケーションにこだわって勉強している私が「アニミズム」にひかれるのはこの点だ。

とはいえこの「こころ」と区別をしたがる傾向もまた「もと」から発生したものである。注意したいのは「もと」は単一であるが、微動だにしない静かで均一な世界ではないということ

「魂=もと」の単一性は多様なざわめき、多様な流れ、多様な傾きが充満した不均一に動的な「事」である。

魂=もとのゆらぎが"こごった"ものが「こころ」であり、またつかの間の生を謳歌する「身体」であるといえるだろう。

この多様に蠢き、いたるところに「こごり」を浮かび上がらせる「もと」の姿は、ちょうど、多種多様な生き物が互いに互いを利用しあい相依相即しながらうごめいていきる「森」のイメージに重なる。

「森のなかで暮らすには簡単な衣・食・住でこと足りる。自分の家に貯め込まなくても、すべてが森に備わっているのだ。昔から森に住み続けている民族を見てごらん。暮らしは低く、思いは高いのだ。そこには、人間だけの文化ではなく、森羅万象と切れ目なくつながっている文化がある、人間は縫い目のない織り物のなかの一つの模様なのだ。」(岩田慶治『アニミズム時代』p.245)

岩田氏の書く「人間だけの文化ではなく、森羅万象と切れ目なくつながっている文化」というのがおもしろい。

病むこころを癒やすのは

現代の文明人は「こころ」が極端に肥大化している。

自他の身体にも、世界のすべてにも、そして自分自身の「こころ」そのものにも、どこかで決められた通りの分割線を正確に精密に引くことに躍起になっては疲れ果てている。

しかし「こころ」もまた「魂=もの」のひとつの「こごり」である以上、必ず自ら引いた分割線を超えて溶け出していく宿命にある。

こころがこころである以上、線を引くこと、区別をすることを止めることはできない。

線を引き続ければよいし、区別はし続けたらよい。

しかしその上で、その線があくまでも「引かれたもの」であり、つまり最初から引かれていたわけでなくて、「引く動き」を繰り返すことを止めてしまえばすぐに消えてしまう「束の間」の結果であるということを忘れないことが重要だ。

更に、多数の線によって区切りだされた存在たちの「形」もまた、無数の可能性がある中での、あくまでも”ひとつ”の区切りの組み合わせにすぎず、それがどれほどがっしりした存在に見えようとも、実は煮こごりのようなものであるということを、忘れないこと。

生と死のあいだに引かれる線でさえ、じつはそういうものである。

「こころ」に囚われながらも「森」に入り込み「魂=もと」を感じることは、「こころ」の引く線がいつしか必ずウヤムヤに消えていくものであり、しかしまた別の姿で引直されるものであり、それもまたウヤムヤに消えるということを、一切の絶望なしに「こころ」を以て眺めるということでもある。

生と死は区別されながら同じであり、同じでありながら区別される。

内と外も、区別されながら同じであり、同じでありながら違う。

「同じ」と「違う」は別々のことでありながら、同じことである。

そういういわば森の「論理」に直接ふれることで、「こころ」の二元論的な論理の領土を森の中の一夜の仮小屋の下に限ることができるなら、この「こころ」もまた一元的な「魂」のひとつのさざなみとして、愛おしむことができるのかもしれない。

何より「こころ」を捉えて離さなかった二元的な対立の世界が、「魂」の大きさに比べればあまりにも小さなものであったことに気づくならば、世界にはまだいくらでも息をする余地が開いていることを思い出すことができる。

そしてこの内と外、自己と他者を二つに分かちながらひとつにつなぐこと、ひとつにつなぎながらも二つに分かつことこそが、「コミュニケーション」ということの極致なのである。

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