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区別することがすべての始まり A.J.グレマス『構造意味論』p.30を読む 

意味とは、区別をすることで何かと何かの対立関係を作り出し、そうしてできた複数の対立関係を重ね合わせて、第一の対立関係の片方の項と第二の対立関係の片方の項を「置き換え可能なものとして」置くということである。

意味ということを仮にこのように規定するとして、実際の言葉の大胆かつ精密な意味作用の動きを記述したりできるのだろうか?

この疑問に答えてくれそうなのが、Algirdas Julien Greimas(アルジルダス・ジュリアン・グレマス)の『構造意味論』である。

今回は、田島宏氏&鳥居正文氏の訳による『構造意味論』の30ページを読んでみる。

(意味の内容の)「実質は、[…]表意世界の内部に位置する語彙化(lexicalizaxtion)の助けを借りる以外に、アプローチすることも捉えることもできない」p.30

アルジルダス・ジュリアン・グレマス『構造意味論』p.30

ポイントは「実質」「表象世界」の区別と、その関係である。

表象世界

表象世界というのは、音声だったり色彩だったり、あるいはインクのシミだったりする物質のパターンの間にみられる差異からなる。

例えば「A」と「B」がどちらも真っ白な背景に染み込んだ「黒い線」でありながら、その形状のちがいによって、別々のものとして区別できること。この互いに区別できる物質のパターンの組み合わせ体系が、表象世界を構成する。

実質

これに対して、意味の内容の実質というのは、その表象によって表現される中身である。

例えば「青」という表象は「赤」や「緑」といった他の表象と区別される限りで、他の表象との関係の中で、「青」という概念を区切りだしているわけだが、この「青」という表象に対応し、この表象で名前をつけられる「あれ」、青信号の光だったり空の色だったりする「あれ」が、意味内容の実質である。

この眼の前に広がる青い空があり、そして「青」という言葉がある。

このとき、青という言葉があろうがなかろうが、目の前には青い空が広がっており、その色は「青」である、と考えたくなるところであるが、しかし、グレマスはこの発想には与しない。

内容の実質は、心理的な、あるいは物理的な言語外的現実とみなされるべきではなく、形相とは別の位置に属する、内容の言語的表出とみなされなければならない」p.30

アルジルダス・ジュリアン・グレマス『構造意味論』p.30

ここで、内容の実質は、心理的な、物理的な、言語外的現実ではない、とある。

意味内容の実質も、表象世界も言語「内」

実質が言語「外」の現実ではないということは、つまり逆に、実質は言語「内」の現実だということである。

心理的、物理的なものといえば、「目に見える青い空」のようなもので、物理的な光を人間の身体の神経が感じ取り、その神経の信号が脳にまで伝わり「青いなあ」という心理的な実感を生じることである。

この「青いなあ」を感じるプロセスは、言語の「外」に、既にもともと「青い空」という物質あって、その青い空が人間の心にコピーされるから生じる、と言いたくなるのであるが、そうではない

逆である。

内容の実質もまた「言語的表出」だというのである。

言語学的転回

ここでは次のような考え方はひっくり返されることになる。

”世界は最初から互いに異なるいろいろな物事から出来上がっており、言葉はそのひとつひとつの物事に適当な名札を貼っているだけである”

これをひっくり返す。順番を逆にするのである。

先にあるのは言葉である。互いに区別された表象の体系である言葉を通して見るから、世界は互いに異なり区別されたいろいろな事物が登場する舞台「として」見えるようになる。

世界が先で言葉は後づけ、と考えるのではなく、言葉が先にあり世界を秩序あるものとして見えるようにしている、と考える。言語学に端を発する思想史上のこの考え方の逆転をを「言語学的転回」と呼ぶ。

さて、ここでグレマスは「ある言語の意味素分節はその言語の形相をなすのに対し、意味論軸の全体は、その言語の実質を表」す、という。

意味素分節−形相

意味論軸の全体−実質

どういうことだろうか。「意味論軸」と「意味素分節」は、グレマスが意味(表意作用=意味するということ)の構造を説明する鍵である。

意味論軸の全体

まず、意味論軸の全体とは。

たとえば「白い」と「黒い」の対立は、「色彩が存在していない」という一つの軸の上で並ぶ。色彩が存在しないという軸は「同じ」であるが、白と黒はその軸上にある異なるふたつの事柄である。

この異なるが同じ、という対立関係を支える軸のことを、意味論軸と言う。

この場合「色彩が存在していない」という意味論軸上に、白や黒などがずらりと並び「全体」をなす。「意味論軸Sは、辞項AとBに共通の類似と差異を同時に結びつける全体を包括する記述から得られた結果」である(グレマス『構造意味論』p.24)。

意味素分節

つぎに、意味素分節。

ある意味素sは、非sと区別される限りで、それとして存在する。このふたつが区別されることから、以下のパターンの区別が生じる。

s :意味素sが存在すること …積極的
非s:意味素非sが存在すること …消極的
-s :sも非sも存在しないこと …中立的
s+非s 意味素範疇Sが存在すること …複合的

この意味素というアイディアは、上の意味論軸の上に並ぶ互いに区別されるふたつのものの関係を、別の形で把握したものであるという。

意味論軸の上に並ぶ互いに区別される物事も、「それでないもの」と区別される限りで「それ」である意味素も、どちらも同じことである。が、その同じことを、他との関係で分節する作用の側から見ればそこに意味素分節が見えるようになり、分節が完了した後に残された事物の側から見ればそこに意味論軸が見える。

意味内容の「実質」とみなされる意味論軸上に並んだあれやこれやのモノというのは、意味の「形相」とみなされる意味素分節の働きと「同じ」ことなのである。

区別をすることは、それ自体にいくつものやり方があり、区別されたものたちの様々なパターンのバリエーションを作り出す。そうして出来上がった区別済のものたちの体系のいくつものバリエーションを重ね合わせて、私たちは意味を見出す。

言語が意味する、ということ事態の意味を探ろうという意味論の試みは、意味するということの意味を意味するとはどういうことか、を問おうというわけであり、とにかくおもしろく意味不明であるのだが、鍵はひとつである。

それは即ち、区別をすること、区別してしまうこと、区別できてしまうこと。その力が生命に、人類に、備わったということが、全ての出発点なのである。

このあたりの話を下記の記事でさらに詳しく考えていますので、ご参考にどうぞ。


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