中沢新一著『レンマ学』を精読する(2)ー「縁起の論理」より、私は他者であり、他者は私である
中沢新一氏の『レンマ学』を読む。
互いにはっきりと区別された物事を、並べて積み上げたものとして世界を理解するのが「ロゴス」的な知性である。通常「知性」というと、明確に定義され互いにはっきりと区別された言葉を理路整然と積み重ねていくことのように思われているが、ロゴスはまさにそうした知性のあり方である。
◎私は私であって他の誰でもないし、他の誰かは私ではない。
◎私と他者は最初から、完全に分かれており、別々である。
その別々のところから初めて、つながりであるとか絆であるとかコミュニケーションといったことを考える。それが私たちの日常の意識が見ている世界であって、ロゴスの知性に映る世界である。
ロゴスの知性にとって世界は、ピラミッドのように、ひとつひとつの石を積み重ねて、全体の静的構造をなしており、安定し、不動で、大昔から未来永劫このままであるように見える。それはいつでもどこでも、誰にとっても同じ、ひとつの決定済の固まった世界というイメージを生み出す。
しかし世界とは、ロゴス的な知性によって作り上げられる像に限られたものではない。
ロゴスに浮かび上がるものを超える世界。
そこに直結し、その動きと共鳴して動き回るののがもうひとつの知性、レンマ的知性である。
知性にはふたつある。ひとつはロゴス的知性であり、もうひとつがレンマ的知性である。
レンマ的知性は、物事の区別をはっきりつけず並び方もあいまいなままざっくりと大枠を把握する。
いい加減であいまい、コロコロと変容する知性。「なんといい加減な、そんなことでは知的とは言えない」と思われるかもしれないが、とんでもない。実はこのレンマ的な知性こそが、物事が互いにはっきり区別されており、その区別のされ方が決定済みで固定していると考えるロゴス的知性の成立を、その生成過程の運動を動かしているのである。
縁起の論理
レンマ的な知性のあり方を正面から捉えようとした人類史上の試みとして、大乗仏教、特にその華厳の思想がある。
『レンマ学』は大乗仏教における「縁起」の論理を、レンマ的知性の働き方を描き出したものとして読み解いていく。
縁起というのは、いわゆる「縁起がいい」「縁起がわるい」というときの縁起である。例えば、入試の前に階段から滑り落ちて転がると「縁起がわるい」などという。
試験で合格点を取れるかどうかは純粋にどれだけのロジックを記憶し容易に想起できる状態に保っているかによるであり、階段から滑ろうが落ちようが転がろうか、事故にあうことと試験に合格することとは合理的には何の関係もない。それにもかかわらず、なぜか「縁起がわるい」という。
縁起というのはまさにこれである。
『レンマ学』の35ページから始まる第二章「縁起の論理」の冒頭、中沢氏はブッダが語った「十二支縁起」(十二因縁)の話を示す。この十二支縁起の説法が数百年後に華厳哲学につながる。
十二支縁起というのは次のようなことである。
人が「生きる」ということは「あるということ」への執着、こだわりを生む。
「ある」ということは、あり続けるために外部と内部を区切ることへの執着を生み、外部にある資源やエネルギーを内部に取り込むことへの執着を生む。
外部のものを取り込むことへの執着は、愛憎両極の情動・感情を生む。外部のあるものを内部に取り込み同一化したいと欲するのが愛であり、逆に寸分も内部に取り込みたくないと外部のあるものを拒絶するのが憎である。
感情は感覚器官から中枢神経系にいたるシステムが反復的な動きを繰り返し、自らを強化しながら再生産していくプロセスを生み出す。この神経のシステムから主観と客観の区別が生まれ、その区別を反復して区切り直し続けようとする傾向を生む。
こうした一連の執着の連鎖は、すべて「無明」の上で生じる。
無明とは、中沢氏によれば「妄想のゴーグルのようなもの」である。
生も、認識も、「ある」ことも、すべて無明によって生じる。
「無明は縁起の全過程に浸透し、あらゆる縁起の項目が、無明に動かされ染まっているとも言える。無明を原基として、縁起につながれた全過程が駆動しているのである。」p.39
この十二支縁起の話から発展して、あらゆる存在が互いに相依相関することで存在しているという華厳の思想が生まれる。
「あらゆる事物は相依相関しあいながら複雑な関係の網の目(ネットワーク)としてつくられているという、「縁起法」の考え方にたどり着いていく。縁起は宇宙を貫く「法」であり、その意味で人間の思考や思惑を超えた、絶対的客観であると言える。」(p.40)
存在すなわち「ある」は網の目の姿をしている。存在が網の目の姿をしているということは人間の主観がそのように解釈するということではなく「絶対的客観」として、そのようにある。
中沢氏は続ける。
「縁起の法は、人類によって認識されようがされまいが、宇宙を貫いて作動し続けている。真理の認識(如来)が世界にあらわれようがあらわれまいが、法界(存在世界)につねに充満し、縁起法は働き続けている。この縁起法の働きが理解できないことから、無明が発生して、十二支縁起のような機構が自動的に作動して、人間に人生苦を生み出すのである。」p.40
縁起の働きが絶対的客観であるのは、それが人間の主観的認識とは無関係に動いているということである。
人間の主観的認識はこの縁起の働きをそのまま掴み取ることが苦手である。
人間の主観的認識は物事が互いにはっきりと区別されていると考えるところから始まる。ところが、そのはっきりと区別された物事を積み重ねて出来上がっている世界というイメージこそが「無明」であり、「妄想のゴーグル」なのである。
相依相関ー網の目としての「ある」
ここで人間が人間の感覚器官や主観を用いながら、縁起の網の目の動きを「知る」ことはできるのかどうか、できるとすればどうすればよいのか、ということが問題になる。
ここで「言語」が登場する。「ロゴス的機構」である言語である。
「人間はロゴス的機構を備えた言語を道具として、世界に立ち向かう、この言語は主観の構造をつくるためにも、また主観の外部にある客観世界の構造を表現するためにも、最適な仕組みに進化してきている。[…]客観世界の表層レベルの出来事は、言語の句構造でおおよそ対応できるような構造をしている。
しかし、この言語による知性をもってしては、縁起法によって動き変化している世界を把握することができない。」(p.40)
言語の「句構造」が主観と客観を構造化する。それは互いに区別された様々な物事があることを前提にした上で、それらの連なり、重なり合い、関係、作用を捉えようとする。「私」と「あなた」など、予め区別がなされていることを前提にした上で、区別されたものごとの間の関係を事後的・二次的に考える。
ところがこの捉え方が、ほかでもない縁起の網の目の動きを捉え逃すのである。
「縁起そのものがロゴス的な仕組みで動き変化していないので、言語のロゴス機能ではその一部分しか捉えることができない」(p.41)
ここで縁起の網の目の動きを捉えるようとするのであれば、ロゴス的、句構造をなした言語に基づく知性とは異なる、別の「知性」が必要になる。
その別の知性のことを大乗仏教では「般若」と呼ぶという。人間にはロゴス的言語の知性とは別に般若の知性がある。
般若の知性は「脳の神経機構の仕組みに適合しているロゴスの働き」の「背後に隠されて」動いている。
『レンマ学』に言う「レンマ的知性」とは、この「般若」の知性の動き方を捉えるものであると中沢氏は書いている(p.42)。
前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら