境界面を通り抜ける針と心の深層 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(74_『神話論理3 食卓作法の起源』-25,M445 色とりどりのヤマアラシ)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第74回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第四部「お手本のような少女たち」の「IIヤマアラシの教え」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。
そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
この世界は、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
ヤマアラシとの平和的交渉
『神話論理3 食卓作法の起源』の282ページから「M445 アラパホ 色とりどりのヤマアラシ」をみてみよう。
なんとも平和な話である。悪意をもって騙そうとする猛獣も登場しなければ、転がる頭が追いかけてきて噛み付いてきたりもしない。実に平和である。
しかし、パッとみた印象が”穏やかなものか/恐ろしげなものか”という区別は表面的な話である。
この平和な神話も、みごとに四つの両義的媒介項、つまり経験的感覚的に対立することの中間の、どちらでもあってどちらでもないようなものたち(図1でいうβ)が四つあって、それが分離と結合の両極の間で振幅を描くように動き回る、くっついたり、離れたりを繰り返しながら、経験的な現実世界の分節を、ものごとの境界を限って、ものごとが”何であるか”を限定していく。
ちなみに、転がる頭の神話は下記の記事で分析しているのでご参考にどうぞ。
経験的に分別される二極に対する中間が”四つ”
β1 森の縁
この「色とりどりのヤマアラシ」の神話は「森の縁」から始まる。
縁、ふち、というのは要するに、森の世界と森ではない世界との中間、境界領域ということである。人間の世界と野生の世界の境界といってもよい。他の神話ではこの境界領域が「集落の近くの河原」とか、「樹の上」といった経験的なことでもって表現される場合もある。
いずれにしても、
人間の世界 ←/(中間領域)/→ 野生の世界
||
森の縁
この分別が曖昧であるところから始まるこの神話は、つまり「人間の世界」なるものが、あらかじめがっちりと固まったものとして当たり前のように存在しているのでは”ない”ところから、「人間の世界」が立ち現れ、その姿形が定まり、限定されていく様を語ろうとしているらしいのである。
β2 針で刺繍を施される皮の服
二つ目の中間的なものは刺繍が施された皮の服であろう。
野生の動物たちからもたらされた自然のものである皮を、人工物に、人間の服という文化の財物へと加工する。特に単なる機能性(寒いので暖かくする)を超えた「刺繍」の加工により、服は、毛無動物である人類のための動物の毛皮の代わりであることを超えて、より人工的な、文化的なものに生成される。
野生・自然 ←/(中間領域)/→ 人工・文化
||
針を刺す
この自然のものと人間のものという対立する両極の間での変換・転換のための刺繍仕事が、先ほどの「森の縁」で行われる。
ここでβ森の縁とβ針による刺繍加工中の服という二つのβ項が、一箇所に集まっている。つまり過度に接近し、ぴったりと結合している。
β森の縁→←β刺繍針
ここで”分離/結合”の二項対立が、結合の極へと振れていることに注意しておこう。
**
この神話、ここでひとつ問題が生じる。
肝心の刺繍の道具、森のものを人工の時空ものに変換・加工のための道具である「針」が不足しているのである。
針の不足は、β森の縁と、β刺繍という、さきほど過度に結合していた二つのβ項が、そのふたつのうちの一方の喪失という形で、過度な分離へと急転換することでもある。
β森の縁←←←←←← →→→→→→β刺繍針
このβ二項の過度な分離、刺繍ができなくなるということは、つまり、人間の世界と動物たちの世界との間の往来、自然の世界と人間の世界とを分離しつつも結合し、結合しながらも分離するというバランスを、うまく取ることができないということでもある。
人間の世界と自然の世界との付かず離れず、分離しつつも結合する関係を安定させること(図1でいえば、Δ人間の世界とΔ自然界を安定的に分けつつつなぐ)が、この神話の目指すところであろう。
ここにβ森の縁とβ刺繍針との過度な分離を、再び結び直すための、三つ目のβ、両義的媒介項が出てくる。それがヤマアラシと結婚する娘である。
β3 ヤマアラシの妻になる人間の娘、と、親切なヤマアラシ
刺繍名人の女性の家の娘が登場する。
この娘はヤマアラシに嫁ぐことで、代わりに針を手にいれる。
針を手に入れることができれば、β森の縁とβ刺繍針との過度な分離を、再び結合へと転じることができるのである。
*
動物と結婚する人間は、人間の世界と野生の世界の両極の間で振幅を描くように動き回りつつ、その動き、振幅の最大値と最小値として、人間の世界と野生の世界をそれぞれ限って・定める役割を果たす。
『神話論理3 食卓作法の起源』の基準神話「狩人モンマネキとその妻たち」を思い出そう。狩人モンマネキは、天上の動物、地下の動物、人間から遠い動物、人間から近い動物と、次々といろいろな動物たちとの結婚と別れを繰り返し(反復する=振幅を描く)ながら、この”人間の世界”を、そうでないところから分離するのであった。
・・
分離と結合の分離と結合を描き出せるのなら
さて、今回のヤマアラシと人間の娘との結婚と、交換条件の成立は、この神話の場合、おどろくほどスムーズに展開する。
他の神話なら、人間の娘がヤマアラシのところへ向かう途中でジャガーに騙されたり、カエルに化かされたり、高木の梢に取り残されたり、真っ二つにされたり、ひどい目にあうところであるが、この神話ではそのようなくだりは一切語られていない。
そのような大冒険譚は、β項たちが集まったり、バラバラになったりする動きを強調することに寄与するのであるが、今回読んでいる神話の場合はβ1「森の縁」、β2「刺繍加工」、β3「動物と結婚する娘」と、そしてβ4「人間の娘と結婚し貴重な贈り物と叡智を授ける動物の王」の四つが揃って分離したり結合したりしていれば、「もうわかるよね」ということなのであろう。
主人公である人間の娘は、ヤマアラシと結婚し、両親のもとから分離する。そしてたくさんの針と、ヤマアラシに関する知恵を土産にもって、また両親のもとに帰ってくる。しかし、その後また娘はヤマアラシのもとへ戻っていく。
この娘とヤマアラシとの分離→結合→分離→結合の動きが、まさに二つのβ項を一点に集めたり、遠ざけたりする脈動であり、この動きからありとあらゆる経験的で感覚的な分別が、時空間さえもが、立ち現れてくる。
そうして、ものごとの分別が定まった現世の確立を象徴するのが、「これ以来、人々は刺繍用のヤマアラシの針を染めるようになった」というくだりである。自然のものであるヤマアラシの針に、色を、様々な色を、模様を、つまり分別をつける。はっきりと限定され、揺るぎなくなった分別こそが、人間にとっての世界、人間にとって安定的に意味のある世界、つまり日常の言語のコードが安定的に再生産され続ける世界をもたらす。
+
神話とマンダラ
レヴィ=ストロース氏は、ヤマアラシが、夏には針が減り、冬に向けて増える、という語るところにも「周期性」、つまり行ったり来たりする運動の両極となる二つの状態の分別を読み取る(『神話論理3 食卓作法の起源』p.284)。そしてさらに、ヤマアラシの針で刺繍される幾何学紋様に、深淵な「象徴的意味」が込められていることを指摘する。
ヤマアラシの針で刺繍される紋様は、断食や祈りの時間を経て励起された霊感状態の中で、ヴィジョンとして得られる。そしてそれは四項関係を描くマンダラなのである。
レヴィ=ストロース氏はある報告から、次のような儀式の様子についての描写を引用する。
バイソンの形の置かれた衣と、その上に置かれた中央に一、四方にそれぞれひとつづつ、合計五つの鳥の羽根。
これは曼荼羅である。
そしてこの長衣が男に渡される時に、「四度」、仲介者が唾を吐く。
唾を吐くなどというと「気持ちが悪い」と思われるかもしれないが、これは「内/外」の分離、境界を超えて、短絡させる、ひとつのβ脈動行為なのである。いや、そうであるからこそ、常識的な「きれい/きたない」の分別からすると、なにやら汚いことをしているように感じられるのである。
ここだけでは詳しいことはわからないが、この長衣を贈られる男が「木の中の鳥」と呼ばれていることもβ脈動らしい。
木のウロ、つまり「容器の-中」に入っている存在が、外に出てきたのが、この男の呼び名である。「黄色の婦人」の「うち」から「そと」に出た唾と、木の「うち」から「そと」に出た男とが、建物の「入り口」という、これまたうち/そとを繋ぎつつ分離するポイントで対峙する。しかもこのとき、男は入り口から「そと」の方を見ており、建物の「うち」にいる女性たちの方を見ていないらしい。「うち」に入っているのに「そと」の方をみて、「うち」を見ていない。一緒にひとつに、同じ容器のうちにはいっているのに、見えないように反対を向いている。結合しながらの分離、一緒になっているのに別々。見事な”どちらでもあってどちらでもない”の実演である。
うち / そと
この分離と結合を多重に重ねたところに「四」が浮かび上がりつつ、もともと分離されていた、結ばれていなかった、ふたりの男女が結ばれることになる。それまでの現実世界においてはっきりと分離されていて動かなくなっていたところを、結合に向けて動かしていく。その際に、「四」の曼荼羅と、「うち/そと」の転換、つまり”だれがどこに所属するか”の転換が、儀礼の空間の中で実際に行われる。
β針、一でありながら四である針
そして「針」こそが、この「うち/そと」を分ける境界面を自在に、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと、反復しながらリズミカルに通過するものである。
針は、うち/そとをはっきりと分けたまま、つまりその境界面を破壊することなく、しかし自在に通り抜ける。そとからうちへ、うちからそとへ。レヴィ=ストロース氏はさらに続ける。
まず、うち/そとを分離しながら結合する「針」が、ひとつのことではなく「四」として理解されていることが指摘される。
針は、一でありながら四である。しかも針は、加工される。「平たくし、柔らかくし、染め」られて、「曲げたり結んだり重ね合わせたり、縫ったり編んだり織ったり組み合わせたり」する。先鋭で硬い針を、柔らかくしてまるで陶土やお持ちのように”練り合わせてー撚り合わせて”いく。
硬 / 軟
尖っている / まるくなっている
このあたりの二項対立も、どちらだかわかららない、不可得な感じになる。
自然的に分節された物であるヤマアラシの針を、曲げたり、結んだり、重ね合わせたり、縫ったり編んだり織ったり組み合わせたりと、加工する。そうして文化的に分節された道具へと変換する。この変換の過程では自然と文化の区別があいまいになる。それは日常通常の人間が入り込むには危険な領域である。
しかしまた、そうした危険なあいまいさ、不可得な領域を潜り抜けることで、この現世の日常の定まった分別を、常に新鮮なものとして、再生させることもできる。
リズミカルな手仕事
ヤマアラシの棘を加工した文化の道具としての針と共にあること、この針によって意識の集中を伴うリズミカルな手仕事を行うことは、本来それ自身が自然である人間の身体を、自然のまま、自然のリズムのままに文化の領域に調和させるというアクロバティックな”対立物の合一”を可能にする。
自然のリズムと、文化のリズムを、調和、あるいは共鳴、美しい共振波の波紋を浮かび上がらせるかのように同調させるという困難な”対立物の合一”を引き起こすために。つまり現世の分別に他ならない図1でいうところのΔの四項関係を立ち上げて維持することを可能にするために、ヤマアラシの針によって文化的紋様を描くという「行」が、β四項たちによる分離と結合を両極とする脈動をリズミカルに惹起し、このリズムから、美しく調和のとれたマンダラが生成し、そのマンダラの最外殻のもっとも「減速」されたところに、現世のΔ四項が分節されるというわけである。
神話はマンダラ状の四角形を描くように、登場人物たちを分離し、結合する
つづけて「M447 オジブワ 天体の妻たち」を見てみよう。
こちらの神話のヤマアラシは先ほどとはうって変わって、悪いやつである。
まず姉妹、二人がセットになって登場する。
姉妹は”別々に異なるが、同じ”、二にして一・一にして二の関係にある。このような”一になった二”は、図1でいうところのβ項×2である。
獲物/狩猟者、食べる/食べられる
このβ姉β妹、冬の前半は、飼っていた猟犬の力で豊富な獲物の肉を得ることができた。あるいは過剰に、通常の取り分をはるかに超えて、動物たちの世界から肉を得ていたとも言える。姉妹は自ら狩猟せず、犬にアウトソースして獲物を得ていたのである。ここでは狩猟者と獲物の対立関係が対等に贈与し合う関係ではなく、前者、狩猟者の側ばかりが一方的に受け取る具合になっている。
狩猟者と獲物という、通常は分離されている(つまりそう簡単に獲物を得られるわけではない)関係が、ここでは過度に結合されている。くっつき過ぎている。このままくっつき過ぎていると、おそらく獲物が取り尽くされてしまうことであろう。
しかし、心配は無用である。冬の後半に入ると、状況がくるりと逆転する。
獲物が急に手に入らなくなる。そして「狩猟者」の立場に居たはずの姉妹と犬が、いつの間にか狼の「獲物」の立場に置かれている。狩猟者と獲物という二項対立において、増長した狩猟者のポジションから転がり落ちて、獲物のポジションに配置されたのである。
*
β針:自然のもの/文化の道具
次に、ヤマアラシが登場する。
ヤマアラシは針を与えてくれるようなそぶりを見せて、姉妹を裏切って、姉の方に大怪我をさせる。姉妹の姉の方は、確かに針(これもまた図1ではβ項である)に接近し、これと結合することに成功したが、しかし、文化の道具として手に入れたのではなく、身体を刺されるという形であった。
β姉が、β針と、あまりにも過度に結合しているのである。
β姉妹とβヤマアラシの針。この二つのβ項が、分離していたところから急接近したかとおもいきや、また急激に分離する、という分離と結合を両極とする振幅を高速で描く。
*
β木の穴
次に姉妹は、木の穴の中に閉じ込められる。
通常中身が詰まっていることが多いはずのところが空っぽになっているという木の穴もβ項である。このβ木の穴の中にβ姉妹が閉じ込められる。β項同士の過度な結合である。
この過度な結合状態を引き離すのが、グズリである。
姉妹は、動物と「結婚する」つまり結合する代わりに、木の中から分離する、という方策を考える。動物と結合して木と分離する。あちらで結合し、こちらで分離する、という動きである。
しかしこの目論見はなかなかうまくいかない。
結婚してくれる動物がなかなか現れないのである。
そしてついに結婚を承諾したのがグズリであった。
βグズリと結婚するはずが
なぜグズリかと言えば、おそらくグズリは、白い毛と黒い毛が一緒に生えており、白/黒という感覚的に対立する二極をひとつにまとめたβ的な存在だからであろう。またグズリが鋭い爪をもっていて、地上から木にのぼることができる点もβ感がある。
こうして、グズリにより、姉妹が一人づつ、順番に、木の中から助け出される。
興味深いのは、先ほどまで「ソリに乗せて引く」という形で綱で結ばれるほどにしっかりと結合していた姉妹が、ここで微かに分離し始めるのである。二人は”同時に”助け出されるのではなく、順番に助け出される。
この神話は最終的に姉妹が太陽と月という、真逆に対立するペアのそれぞれのところに、分離して、結婚する、というところで終わる。つまり、β姉妹を二つに分けて、Δ姉とΔ妹を作り出し、このそれぞれと別々に結合するものとしてΔ太陽とΔ月の分別を確定する、というのがこの神話のオチである。
グズリによって助け出される時にわずかな時間差が開き始めていることも、姉妹の分離に向かう力を感じさせておもしろい。これが次の川のほとりで造化の神が変身している病人から逃げる時には、姉妹の間にさらに大きな時間差が開くことになる。
さて、姉妹はグズリと結婚するはずが、グズリの背中を汚してしまったためにトラブルになる。姉がグズリに攻撃され、妹がグズリに反撃する。
姉妹が、攻撃されるもの/反撃するもの、という見事な対立二極に分かれつつ、βグズリから(β木の穴からも)分離していく。
*
トリックスターとあわや結婚
そしてまた場面転換である。
今度は川のほとりである。
川のほとりというのも、前掲の神話の森の縁と同じく、陸界/水界の中間領域であり、人間は魚達のように水中に暮らすことができないという点で、水界な人間にとっては死の世界である。川のほとりは生/死の二極のどちらでもあってどちらでもない、中間の、β項が生息しやすい場所である。
この河原で暮らす姉妹の元へ、嘘をついて結婚を目論む神が訪れる。
この結婚、つまり結合からは、姉妹は速やかに分離しようとする。
分離から結合へ、そして分離へ。
姉妹は順番に、河原を離れて、天に昇る。
太陽と月、それぞれとの結婚
そして天界において、姉妹は月と太陽と、それぞれ別々に、結婚することになる。まずグズリと結婚する可能性があったものの破談(?)になり、次に造化の神とも結婚する可能性がったもののこれも実現せず、そして第三の結婚が、姉妹それぞれと月と太陽との結婚である。太陽と月の違い、太陽と月が異なり、対立するものであることを強調するように老/若の区別が語られる。
β姉妹が二つに分離される。
Δ姉 ← β姉妹 → Δ妹
|| ||
Δ月 / Δ太陽
こうして安定した四項の、付かず離れずの調和した関係が設立されたところで、この神話は幕を閉じる。
* *
レヴィ=ストロース氏は、この北米の神話における「ヤマアラシ」が、『神話論理2 蜜から灰へ』で分析された神話における「蜂蜜」と「同じ役割をはたして」いると書く。
「ヤマアラシ」と「蜂蜜」が同じはずないだろうと思われるかもしれないが、これはヤマアラシなるものの自性や本質が、蜂蜜なるものの自性や本質と”同じだ”と言っているのではない。そうではなくて、図1におけるΔ四極の分離と結合の調和を作り出すようなβ脈動の波紋を描くという点で、「ヤマアラシ」と「蜂蜜」が、それを過度に求めようとする人間(つまり人間の世界と自然の世界との対立にあって、前者の極から分離し、後者の極へと結合する動きをとる振幅を描く項)との関係において、”同じ”分離と結合の両極を分離させたり結合させたりする役割を果たしている、ということである。
蜜も、毒矢や毒流し漁のための毒も、ヤマアラシの針も、いずれも文化/自然(人間の世界/野生の世界)の対立でいえば、自然(野生)の側に属しながら、「すぐさま」そのままで文化(人間)の側に移動させて、極めて脅威的な道具や食べ物として用いることができる。
それらは、
Δ自然 / Δ文化
(Δ野生の世界 / Δ人間の世界)
というΔ二項対立の中間にあって、一方から他方へと移動しつつ、このΔ両極の間を適度に分離しつつ、適度に結合するような余地を広げたり狭めたりする。
ここに見事に、マンダラ状の「四」が、つまり人間が感覚したり思考したりすることが可能な意味ある世界、分節された世界が、ひらけてくるのである。
そして、たとえば、
Δ良い / Δ悪い
というこの分別、二項対立もまた、β四項が動き回ったあとに浮かび上がることである。したがって、β項としての動き方をする限りでのヤマアラシは、Δ良い/Δ悪いの手間で動き回り、良い時もあれば、悪い時もある、という、良いのか悪いのか、どちらか不可得なものになりうるのである。
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