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南方熊楠『燕石考』の4項モデル あるいは人類ができる思考の極み  ー 安藤礼二著『熊楠 生命と霊性』を手がかりに考える

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安藤礼二氏の『熊楠 生命と霊性』引き続き読んでいる。

(前回の記事はこちら↓ですが、今回の記事だけでもお楽しみいただけます)

南方熊楠の世界を垣間見ていると、思わずこんな思いつきがあたまをよぎる。ときどき目にする「猿でもできる」とか「猫でもわかる」とか「わたしにも写せる」とか、そういう言葉に「おいおい」「いやいや」とおもわず微笑んでしまうのが粋な読み手ということかなと思うのだけれど、もしかすると神仏の世界では『人類でもできる○○』のような本がロングセラーだったりするのではないだろうか??などと。

問題は人間の知性、人類の"基本性能"である。人間の身体、神経系を含む身体が、言語を中心とする文化という人工環境のなかで育成されていったときに「できる」ようになる思考の極限とはどういうものか?

そういうことを考えさせられるのである。

◇ ◇

『熊楠 生命と霊性』の冒頭には次のようにある。

南方熊楠は、おそらく、その生涯をかけて、一つのヴィジョンを追い求め続けた。それを一言でまとめてしまえば、非生命と生命の差異、物質と精神の差異を乗り越え、森羅万象あらゆるものが発生してくる根源的な場を探究すること、となるであろう。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.6

この森羅万象が発生する場、即ち、生命でも非生命でも物質でも精神でも、森羅万象のなかのあるひとつのものが、他のものとは異なるものとして区別される(差異化される)ところに立ち合おうというがの南方熊楠の追い求め続けたことであるという。

そしてそういう森羅万象のなかのあるひとつのものが、他のものとは異なるものとして区別される(差異化される)様子を生きた人間の肉体を以ってして直接体験できる局面というのが、(1)粘菌観察であり、(2)曼荼羅描くことであり、(3)潜在意識から発生する夢や神話分析することであった。

さて、個人的に特におもしろいのはこの(3)潜在意識である。

なぜなら(3)が一番難しいからである。

なぜ「難しい」が「おもしろい」のかと言えば、それはつまり表層の「観察されもの」「描かれもの」「分析されもの」の、はっきりと区画された分かりやすさ、境界線がいつもおなじところで安定して固まっていること、これらを反転させる動きの可能性を隠した隠し扉の蝶番のようにもなるのが「難しい」だからである。

分かりやすさに対する難しさこそ、表層から深層へ、動きが止まっところから動きが動いていたり動きつつあるところへ、固まった区画線から、今まさに分節する動きが線を残そうと走り出すところへと、私たちの表層意識を誘う。

もちろん、そういう誘いであるからこそ、難しさは私たちの表層意識を怯えさせもする。

潜在意識の動作のパターンが言語の構造を発生させる

潜在意識は「論理」を持って動いており、その動きは我々の意識でも「構造」として捉えることのできる影絵的ななにかを発生させる。

潜在意識は曼荼羅のように、あるいは粘菌のように構造化されている。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.55

その構造を発生させる動きというのは、曼荼羅を発生させる動きと同じであり、粘菌の生き方あり方ともまた同じであるという。

どういうことだろうか?

詳しく読み解いていこう。

まず「潜在意識」といわれても、なんのことだかわからないという方もいらっしゃると思うが、潜在意識とは、ひとつにはのことだと思っていただければよい。

私たちが日々慣れ親しんでいる潜在意識の顕れは「夢」である。

寝ている時に見る、あの夢である。

「夢」は混沌から秩序を生み出す「もの」たちの重なり合いのなかから無数の論理の束、関係の束を導き出す。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.56

夢は秩序を生み出す。夢は混沌から秩序を生み出す。

即ち、夢では、混沌から秩序が区切り出され区別される(差異化される)。

ではその混沌と区別される限りでの「秩序」とは、どういうカタチをしているのだろうか?

いわく、その答えは「関係の束」である。

夢が生み出す秩序は関係の束というカタチをしている

夢において、潜在意識において、混沌から生まれる秩序は「関係の束」という姿をとる

では「関係の束」とはどういうことなのだろうか?

ここで熊楠登場である。

南方熊楠はその論考『燕石考』において、この潜在意識において発生する秩序即ち「関係の束」の最小単位を次のような四項関係の形で描いた

○ - ○
|     ×     |
○ - ○

この四項関係を生み出すのが「夢」である。

そして「神話」もまた、この四項関係を生み出す。

熊楠の「燕石考」は、「燕石」に関する古今東西のいくつもの神話の読みを通じて、この四項関係を浮かび上がらせる。

(石燕) - (燕石)
|      ×        |
(酢貝) - (眼石)

四項関係の図に描かれた「-」と「|」と「×」 を安藤礼二氏は「事の線」と呼ぶ。

事の線について、安藤礼二氏は次のように書かれている。

混沌から生み出される秩序。それはまた、外部と内部、自然とこの私、物と心という相対立する二項の間に引かれ、その両者を縦横無尽につなぎ合わせる無数の「事」の総体、原因と結果を結ぶ「事」の線の集合でもあった

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.60

事の線は、その両端にひとつづつ、あわせて二つの項を生じる。

事は「もの」ではなく「こと」である。

そして「こと」は「項=○」ではなく「線」である。

私たち人間はなんとなく日常を生きている限り「もの=項=○」ばかりを相手にしては喜怒哀楽に苛まれているが、その「もの=項=○」は、実はそれ「事の線」が無数に作動し動き回る運動の「影」のようなものである。

「影」は取るに足らない物ということではないが、どちらかといえば「事の線」が伸び、項たちを分割しては結合していくダイナミックな動きのほうがメインであって、「もの=項=○」の方は付随的、オマケ的である。

線としての事、事の線は、二つの相反する動きを一つにした「双面的」な動きである。事の線は、一面では対立する二項のあいだを「つなぎ合わせる」。そして事の線はもう一面では対立する二項を区別し、差異化し、分節する。

事の線は分割しつつ結合する、分割結合をする。

事の線は、二項を区切りながらも付かず離れずのペア関係を保ち、その上で、そうしたペアをいくつも重ね合わせては、第一のペアの片方の項を、第二のペアの一方の項と、異なるが同じという関係に置いてはペアとペアを接続する。事の線から生じた二つの項は、事の線によって別々に分離されつつ、同時にひとつに結びつけられる。

この事の線による分割結合、分節とつなぎ合わせは次々と増殖していくが、その接続運動の増殖が束の間見せるスナップショットを顕微鏡で観察するように微細にみると、そこに像を結んでくる最小単位がこの四項関係である。

『燕石考』は「燕石」に関する神話を扱う。燕石とはかぐや姫のお話に登場する「燕の子安貝」のことである。

燕石は、燕によって運ばれることで、海と空、水界と天界、暗と明のあいだを移動する。海と空のような日常的には完全に分離されて固定化したにみえる対立関係の両極のあいだを一方から他方へと移動する。

この対立関係にある両極の間を移動するという点で、燕石は海に属するものでもあり、同時に空(に高く掲げられた燕の巣)に属するものでもある。燕石は対立関係にある両極に一方でもあり他方でもあるという両義的、双面的なものであり、そのことによって普段は強く分割されて相容れなくなっている海と空という二極のあいだを「媒介する」わけである。

ところで、海と空は、人間のようは空を飛ぶこともできず、また魚のようにずっと泳ぎ続けることもできなに「地上」の動物にとってはどちらも「異界」である。海も空も、地上に対する異界、地上と対立する異界である。

海も空も地上の人界からは二重に区別された非-人間的な領域である。その間を易々と移動する燕石というのは、これは大変な媒介力をもつ。

この媒介力は二つの相反する働き方をする。

燕石の媒介力は、一方では分離したものを繋ぐ働きをする。結婚を拒むかぐや姫とその求婚者というとても噛み合いそうにない「分離」を媒介する、つなぐ、結びつけるとなると、燕石、燕の子安貝くらいの媒介物が求められるのは至極真っ当な話である。

他方で燕石の媒介力は、くっつきすぎたふたつのものを引き離す。例えばかぐや姫とは別の古今東西の神話では、しばしば燕石は安産のお守りということになる。出産という母子の分離・分割の時間において分離をスムーズに進行させる上で、水界と天界を媒介するほどの力をもつ燕石は頼りになる媒介物ということになる。

このように神話というのは、対立関係にある二項のあいだを両義的な媒介者が取り持ち付かず離れずの関係を保とうとする話になっている

これは後にレヴィ=ストロースがその「神話論理」で徹底的に追及するところである。そのレヴィ=ストロースに先行すること数十年前に、南方熊楠は「粘菌」と「曼荼羅」の発生に寄り添う傍らで、すでに神話をこのような「分割結合」を引き起こす「事の線」の束として捉えていたわけである。

神話もまた夢と同じく、潜在意識が私たち人間をしてそのように語らざるを得ないような感じへと追い込むことから生じたひとつの痕跡である。

この点で神話もまた「事の線」の動きであるわけである

事の線が動き、四つの項を結合しつつ分離する、分割結合する、異なりながらも同じものとして関係づける動きこそが、「神話」という姿のコトバを残すのである。

「神話」とは、このように言葉と物が多極多数的に接合されることを許す意味の磁場から立ち上がってくるものであった。それは心(内部)と物(外部)が二つに分割され、また一つに結合される場所のことである。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.68

分割され、結合される。

分割することと結合することはひとつの「事」、ひとつの同じ動きの二つの顕れ(私たちの意識に対する顕れ)である。

生命は、生命と非生命を分割しながらも結合し続ける「事」の動きから生じる

気をつけておきたいが、生命「が」主語・主体となって分割したり結合したりしているのではない。分割する動きや結合する動きは生命「の」ものではない。それは生命に属したり、所有され得たりはしていない。

この動き、分割しながらも結合し続ける動きは生命よりも手前にあり、先に動いている。この分割結合の動きを通じて、その生命は非生命から分割され、同時にまた非生命と結合するのである

分割結合の動きは「ひとつ」であるが、その動きは多様である。その「ひとつ」である分割結合の動きは、ある生物の意識で「分かる」形としては複数の顕れ方をする。

例えば、どれかひとつの分割結合に注目する。ただひとつだけの分割結合(区別)に注目するのである。

この区別(分割結合)によって、この「/」の両側に、二つの項が現れる。生命と非生命でもよいし、物と心でもよいし、現実と夢でもいい。なんでもよい。

 ○ / ○

ところで、この二つの項「○」もまた、さらに分割結合される動きに貫かれている。

 (○ / ○) / (○ / ○)

という具合である。すべてのあらゆる項○は、○=(○ / ○)である。

で、あとは永遠に繰り返される。

 ( (○/○) / (○/○)) / ( (○/○) / (○/○))

この一直線一次元の置換論理を、二次元に変換して表現したものが、先ほどの熊楠の四項関係である。

○ - ○
|     ×     |
○ - ○

四項関係の図は実によくできている。

(石燕) - (燕石)
|      ×        |
(酢貝) - (眼石)

例えば、左上の(石燕)に注目すると、この(石燕)は(燕石)と分割結合され、同時に(石燕)は(酢貝)とも分割結合され、さらに(石燕)は(眼石)とも分割結合される。

さらにさらに、(石燕)の左上には下の図のように、さらに「事の線」が隠れている。

×         |      
-   (石燕) - (燕石)
  |      ×        |
  (酢貝) - (眼石)

分割結合の動きは、すべての○と○の間で動いている。

ある一つの○は、他のすべてのあらゆる○と分割結合の動き(事の線)で分割結合される。仏教の言葉でいう法界縁起というのはこの○同士の分割と結合(「事」の線)のネットワークのことである。

この法界縁起、「事の線」のネットワークを、私たちは線形一次元でも表現できるし、平面二次元でも表現できるし(熊楠の四項関係や南方曼荼羅、もちろん両界曼荼羅も)、さらに多次元で表現してもよい。

どのような次元で表現しても構わないが、全ての○が全ての○と「事の線」で分割されながら結合されている、別々に異なりながらも一つになっている、ということである。

安藤礼二氏も『熊楠』で指摘されているように、のちにクロード・レヴィ=ストロースもその神話の分析を通して、熊楠と同じ四項関係の「神話論理」に到達した。

全てが全てと「事の線」で分割されながら結合されている、別々に異なりながらも一つになっている、というその動き、運動、プロセス、出来事自体が、自らの影のひとつの姿として、人間の言語の構造という姿で即ちパラディグマ軸とシンタグマ軸からなる構造という姿で顕れる。その様子をレヴィ=ストロースもまた捉えていたのである。

このあたりについては下記↓のnote記事に書いているので、ぜひご参考にどうぞ。

神話の論理が動く事で発生する構造は、その最小単位をこの四項関係とする。

「燕石孝」に体現された熊楠の神話論理は、心と物、精神と肉体の関係に再考を促すものである。そこに見出された曼荼羅状の構造は、人間と自然を通底させる。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.68

自然と人間、心と物、精神と肉体などなど、対立関係にある二つの項を、対立させながらも通底」させる。

区別分節差異化分割しながら、つなげるのである。それが神話の論理である。この「通底」させる動きを作り出すのが「曼荼羅状の構造」である。

ここに改めて「曼荼羅」が出てくる。

曼荼羅はまた、人間の心の構造から、自然の根源にあり森羅万象を生み出し続けている宇宙の根本原理である大日如来の心の構造を推し量る唯一の方法でもある。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.68

ここに「人間の心の構造」と自然(宇宙)の根本原理という区別・対立があるが、この区別は「推し量る」ということによって媒介=ひとつに繋がれている。

「人間の心の構造」と「自然(宇宙)の根本原理」の二項対立を、人間と自然の対立、文化と自然の対立、と言い換えてもいい。この対立もまた、神話の言葉として顕れた他のすべての対立区別と同じように、分離されつつ結合される分割結合の関係にある。

そして私たち人間は、自然とは区別される人間でありながら、同時に自然の一部でもある人間は、「曼荼羅」のような両義的媒介的なヴィジョンを介して「推し量る」(つまり「似ている」と気づく)ことで、この分離しながら結合する”森羅万象を発生させる根本原理”を明晰に意識することができるようになるわけである

『熊楠』のこの章のまとめに安藤礼二氏は次のように書かれている。

脳に発現する「狂気」、「粘菌」の生態の発見、「夢」にかわるがわる訪れる「死者」と「生者」の幻影…。このような三つの要素が一つに連結し、熊楠にとって、粘菌として活動を続ける潜在意識(アラヤ織)の原型が形作られた。私はそう思っている。

安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.72

人間は、自分自身がひとつの項、すなわち分割結合する事の線の先に結ばれる「項」でありながら、同時にこの分割結合する「事の線」たちが戯れる様子を自らの潜在意識から発生する様々なヴィジョンとして観察することができ、しかもそれを言語にして仲間に語り聞かせることができる

これがおそらく、人間のとんでもないところなのである。

ただし私たちは日常生きている範囲では、そういう性能をあまり発揮しないように抑えられている。ほとんど人が自らがもっている根源を「推し量る」性能に気づかない中で、例えば南方熊楠や折口信夫といった人はその性能に気づき、それを発動させたのだろう。

ついでに書いておくと、おそらくレヴィ=ストロースもまたこれに気づいていたのではないかと思う。彼が書いたものの端々から「文化」と「自然」の区別の発生ということを、こういう森羅万象を発生させる根源的な分離結合のレベルでイメージしていたように思われる。もちろん、それでいてなお徹底して語られた言葉の中へ潜航し、言葉たちが織りなす関係構造、意味分節システムの動きを「客観的」に記述しようとしたのがレヴィ=ストロースの脅威的なところである。

すっかり長くなってしまったので、本日はこのくらいに。

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m(_ _)m

本記事をもとに執筆した論考が、
思想の科学研究会年報第三号『Ars longa, vita brevis』
に掲載されています。


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