「意味」の意味とは?? -クロード・レヴィ=ストロース著『遠近の回想』から考える
『遠近の回想』(De près et de loin)は、クロード・レヴィ=ストロース氏へのインタビューを収めた本である。インタビュアーはディディエ・エリボン氏である。みすず書房から竹内信夫氏による訳書が発行されており、日本語で読むことができる。
この本は、文化人類学や文化に関する学問に携わる人に限らず、ひろく「科学」で物事を理解することを願う人たちに読んでもらえるとよい一冊である。
この本の言葉は、話し言葉に対する書き言葉であり、印刷された活字の列でありながら、しかし、あくまでも声で語られた話し言葉なのである。
話し言葉なのに書き言葉、声なのに文字あるいは文字なのに声。言葉がそういう二つの極のあいだで「あいまい」なまま宙ぶらりんになっているということ、それこそがインタビューを本にすることのおもしろさだと思う。インタビュアーであるエリボン氏からの端的な問いかけに対し、レヴィ=ストロース氏は間髪を入れずに答える。大部の著作の膨大なページの森のなかでは迷ってしまい容易に到達できないレヴィ=ストロース氏の思考のエッセンスが、ここでは「声」になって向こうから響いてくる。
意味するという動詞の意味
例えば、私が個人的に興味のある「意味の意味」という問題について、レヴィ=ストロース氏の言葉を聞くことができる。
ここで、漫然と「意味」ではなくて、「意味する(signifier)」という「動詞」の話にフォーカスされていることにまず注意をしておきたい。
意味が、「意味する」であり、動詞である、ということは、意味が名詞で呼ばれる"もの"ではないということである。
いま問題になる意味は、意味する、動詞である。
では、その「する」は何をするのだろうか?
意味するのするは、見つけ出す。対応物を見つけ出す。「我々が探している」何かの対応物を見つけ出す。
例えば、何か謎の「A」、その意味が私にはわからない「A」があるとする。
「A」が何だか、別にわからなくてもよい、というのであればそれでよい。
しかし「A」が何だか、わからないと気が済まない、どうしても知りたい、わかりたいということになったとき、私たちは「A」に「対応」する、別の何か(BでもCでも)を探し出し、見つけ出す。そうして「謎のAの正体は、Bだったのか!」という具合に、謎Aの”意味がわかる”ということになる。
この「対応物を見つけ出す」について、レヴィ=ストロース氏は辞書を例に説明をしている。
語から語へ、次から次へとある語に対応する他の語を見つけ出していく。そうしているうちに、私たちはどこかで「これなら知っている」と思える語に出会うことになる。
この「辞書」に例えて意味の意味を説明するということを、レヴィ=ストロース氏は『神話と意味』に収められた講演でも行っている。
謎の語や、謎のイメージ、よくわからない観念を、他のすでにわかっている語やイメージや観念に置き換えることで、私たちは前者の意味がわかった、謎が解けた、と思うようになる。
すでにわかっている事柄、すでに自分が持ち合わせている「意味空間」の中に、新たに出会った謎のモノに「対応するもの」を見つけ出す。
そうすると、「これはあれだ!」となるわけである。
◇
ところで、このくだりの直前で、レヴィ=ストロース氏は次のようにも語っている。
最終的な意味に到達できない、とはどういうことだろうか。
それは意味するということが、未知のなにかを既知の別の何かに置き換えていくことだからである。
つまり、この「置き換える」ということには、予めどこかにゴールが設定されているわけではないのである。「置き換えの最終地点はこちらです」、「これ以上先には置き換えられません」というような何かは本質的にないのである。
もちろん、私たちひとりひとりは自分のなかで、何かひとつの事柄を選んで、「これ以上に先に置き換えを進行させるのはやめよう」と決心決意することはできる。
しかし、それは意味するということの動きそのものに属する事柄ではなく、逆に意味するという動きの外にあって、外から意味する動きを制約する別の動きなのである。
※
私たちは「○○の意味は何か」と問うことができるし、それにたいして「○○の意味とは△△△である!」という具合に答えることができる。
しかし、この△△△には、その先がある。
△△△は、さらに他の何かに置き換えられる可能性へと常に開かれている。
だからこそ、神話でも人生上の何かでも、その「意味」がどこかで最終的に決定されるということはない。
私たちが何かの謎Xの確定的な意味だと思っている事柄αは、αそれ自体に含まれる何か神秘的なパワーによってXの本当の意味であるわけではなく、単にX→αと置き換えて、そして仮に一時的に、置き換え運動がαで一時停止しているということにつきる。
そして何かのきっかけで、置き換えはαからβへ、βからγへと、滑り出し始めることもある。
ある意味は、他の意味との関係においてしか存在しない、というのはこういうことなのである。
「私」にとっての切実で決定的で最終的なゴールに思われる意味も、無数の可能な置き換えのなかの、たまたまひとつ、他ではない置き換えなのだということであり、不意にそこから、次なる置き換えへと転がり始める可能性が常にある。
格子、マトリクス。この例えは意味するということ、対応物を見つけるということ、置き換えるということの運動に、よりクリアな姿を与える。
即ち、置き換えはいたるところでランダムにカオス的に発生するが、それだけでなく、反復的に置換運動を生じることで(つまりあるAは頻繁にBと置き換えられるが、Cとは滅多に置き換えられない、ということ)、網目状の対応パターンを織りなすということである。
この格子、マトリクス、網目状の構造というのは、井筒俊彦氏の意味分節理論における「アラヤ織」にもつながるところであるし、南方熊楠の「燕石考」の4項モデルにもつながる話であって、きわめて奥が深い。
そしてなにより、この格子、マトリクスというのが、レヴィ=ストロース氏の「構造」の概念に関わる。
「社会生活のすべてが構造分析で理解できるなどと思ったことは決してありません」
レヴィ=ストロース氏といえば、「構造主義」の祖というふうに色々なところでしばしば書かれている。しかし驚くべきことに(いや、よくあることだが、というべきか)、ご本人はそのように思われることを拒否しているのである。そのあたりのことも『遠近の回想』で語られている。
例えば、こちらである。
置き換えの関係、即ち交換の関係、対応関係の格子、マトリクス、構造は、シンプルなモデルで記述されるわけだけれども、そういうモデルは「社会生活のすべて」を理解できる魔法の何かではない、という。
まさにレヴィ=ストロース氏がいうように「偶然」に支配されて変容していく存在世界の「すべて」を、定まった何かでまるごと説明できるだろうと考えるのはハッピーに過ぎる。
概念レベルのモデルというのは、そういうすべてをそこに置き換えれば、全ての謎が解決する、最終置き換え先ではないのである。
しかしそうだからと言って、概念レベルのモデルで思考することは無意味ではない。
「偶然に支配」されて変容していく存在世界は、カオスである。それも創発と発生の可能性に満ちた、いい意味でのカオスである。「大きなスープ皿」というのはこのカオスのどろどろの例えである。
しかし、そのカオスのスープの中に「小さな秩序の島が形造られている」のである。それも一つ二つではなく、あちこちに、たくさん。
そういう小さな秩序を、抽象度の高い記号の組み合わせに置き換えて記述してみた、というのがレヴィ=ストロース氏の探求である。
それはカオスの流れの中で、相対的に安定した秩序の外観を呈している微小部分であり、その中で、「いくらか厳密な議論ができる」ようにするために、抽象度の高いモデルが用いられたのである。
このことをレヴィ=ストロース氏は次のような美しい例えに置き換えて、私たちに「わかる」ようにしてくれる。
◇
これについては、人類学のパースペクティブをめぐって、エリボン氏とのやりとりが進む。そして「モデルがそのまま現実に適用できることはめったにない」と明言されるに至る。
レヴィ=ストロース氏のモデルが扱う研究対象とは、次のようなことである。
即ち、構造モデルの対象は「何をしているか」(実際に行われていること)ではなく、「何をなすべきかと信じ、言っているか」(観念され言語化された意味)なのである。
自然科学が対象とするような物質的なものとして「構造」がそのままどこかに転がっているわけではないのである。
構造はあくまでも語と語の置き換え関係、イメージや概念の置き換え関係といった、観念の領域に属する事柄に関わる。それも実際に行われている無数の置き換え処理や、対応物の発見処理がそのまま構造であるわけではなくて、時にランダムにゆらぐこともある多数の置き換えの動きから抽象された、理念的なモデルとして、構造ということが考えられるわけである。
こういう観察と記述のアプローチこそが、まさに科学的な思考ということなる。
「名前だけ」などとあるこの文章を、社会科学者、人間科学者の方が読むと辛辣なことが書いてあると思われるかもしれないが、冷静に、よく読んでいただきたいところである。重要なことは「真実の科学においては、さまざまな観察のレベルは互いに排他的なものではありません。むしろ相互補完的」というくだりである。
そして続けて、次のようにも書かれている。
ここでは、はじめに書いた意味するということをめぐる話と同じことが言われている。
科学的な思考もまた、それが言語やモデルによる記述である以上、何か謎の対象を、既知の別の何かに置き換える、対応させる、という「意味する」と同じ動きをすることになる。
そして「意味する」の置き換え、対応は、最終的な置き換え先、それ以上先に置き換えられない置き換えのゴールというものを持たないのであった。
科学もまた同じである。科学は永遠に反証可能性に開かれているからこそ、科学なのである。
反証可能性というのはこの場合、置き換え先が一つではないこと、置き換えは止まることがないことを意味する。
◇
意味するということ、何かの意味を探究することは、どこかで「わかった!」に辿り着く。
ある人が、謎の言葉Aに出会って、辞書を引くと、「AはBである」という置き換えが提案されていたとする。
このときもしBが既知であれば、「なるほど!AはBだったのか!早くそう言ってくれよ」という具合になる。
しかしもし、Bもまた謎だったなら、またBを辞書で調べることになる。そしてBもまた謎で、Cへ、Cもまた謎で、Dへ、と置き換えを重ねていくことになる。そして幸いにも(不幸にも)どこかのXで、ついに既知の言葉に出会った(出会ってしまった)とする。
ここで、ああよかった、めでたしめでたし、以上で置き換えは終わりです。ありがとうございました。…と言わないのが「科学」である。
科学は「現在の知識水準において」意味がわかったということに仮にされていることの先に、新たな置き換えの可能性を探し続けるのである。
根本的な問題は、どうして私たちはある置き換え先を「わかった」と思い、別の置き換え先を「わからない」と思うのか、ということである。
私たちの「わかる」と「わからない」の違いは、どこで発生して、私たちひとりひとりに取り憑いているのか?!
この話は、個人における個的言語アラヤ織が実は集団的アラヤ識につながり、その一部になっているという、井筒俊彦氏の意味分節理論につながるものである。
私たちは無数の他者たち死者たちの「ことば」の残響(これを集団的言語アラヤ織という)の中で、それを苗床として、個の個的アラヤ織として発生している。
私が物心ついて以来素朴に知っていると思ったり知らないと思ったりしていることは、この貸し与えられた意味分節体系の一部をつかって、分節して、分けて、分別して、わかったと思っていいる”だけ(もちろん、すばらしく大した「だけ」)”なのである。
このあたりの井筒俊彦氏の意味分節理論については下記の記事に書いているので、くわしくはこちらをご覧ください。
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