知識と知恵、他者の沈黙を「未知」のまま聞き続けるために(ティム・インゴルド『人類学とは何か』を読む)
ティム・インゴルド著『人類学とは何か』がおもしろい。
人類学はとてもおもしろい学問だと思う。
人類学の研究対象は、その名の通り「人類」である。
ところで、一言で「人類」と言ってもいろいろな人が居る。人類は多様なのである。
素朴に「なんとなく良いこと」として語られがちな「多様性」であるが、一体何が多様なのかというと、簡単には答えられない。というか出来合いの答えが決まっていないということこそが、多様ということなのである。
言語や習俗の違い、信仰の違い、文化的な違い、歴史的な背景による違い、遺伝的背景による違い?などなど、どこの何に注目するかで、多様な差異はいくらでも発見できる。そこでは、どの差異をより根本的な差異とみなすのか?であるとか、差異を差異として「差異化する」営み自体をどう記述するか、といった深い問いへと進んでいくことになるが、その傍らで、多様性はますまず増殖し続ける。
人類は多様であるが、その多様性は秩序だって整理できる目録をなしてはいない。多様性は生成し、変容し、流動する。人類というのは、予めその正体がわかりきった何かではなく、どこまでいっても謎のもの、謎の他者なのである。
知識と知恵
そうしたところに入り込んでいくのが人類学であるというティム・インゴルドは「知恵」と「知識」を対置し、その違いから人類学の役割を明らかにする。
インゴルドによれば、知識は、物事を「固定」したものとして扱う。
知識は「概念や思考のカテゴリーの内部にモノを固定」した上で、そのモノそれ自体に属する事柄に即してそのモノが何であるかを説明したり、そのモノが他のモノとの関係の中でどのように挙動するかを説明する。
ここでモノは確定的に記述することが可能な対象として扱われる。曖昧さや流動性を排除した確定的な記述はモノを予測可能な対象にする。ここでインゴルドは次のように論じる。
知識の要塞に立てこもるほど、周りで何が起きているのかに対して私たちは注意を払わなくなる。私たちがすでに知っているのならば、なぜわざわざ注意を払ったりするのだろうか?
知識は、謎の他者、未知のことがらを、「知っていること」に変換する。
知恵
一方「知恵」は、「世界に飛び込み、そこで起きていることにさらされる危険をおかすこと」であるとインゴルドは言う。
知恵はわたしたちが注意を払ったり、気にかけたりするために、他者を目の前につれてくる。
知識がモノを「確定的に記述できる対象」として扱うのに対し、知恵はそうしたモノをあくまでも「他者」として扱う。他者は「私」あるいは「私たち」による確定的な記述から絶えず逃れだす存在である。他者は私にとっては、いつまでもどこまでも未知である。
未知の他者を「私」に直面させるのが「知恵」である。
「知恵は私たちをぐらつかせ、不安にする」のである。
知識が世界を確定的に記述できる安定した予測可能なものとして、つまり私たちが安心できる領域として捉えようとするのに対して、知恵は世界をあくまでも不確定で予測不可能、「不安」なものとして保とうとする。
知識で「武装」し、他者をすでに知っているモノとして扱うことも、もちろんできる。しかし知恵はそこであえて、他者を未知のもの、不安を呼び起こし、沈黙を強いるものとして、私の目の前に出現させつづけるのである。
私たちには知識に劣らず知恵が必要なのである。現時点でそのバランスは圧倒的に知識に傾いており、知恵からは遠ざかってしまっている。これほど知識が溢れているのに、それが知恵に結びつかない時代は、実際これまでの歴史にはなかった。(『人類学とは何か』p.15)
「知識が溢れているのに、それが知恵と結びつかない。」
このインゴルドの指摘は痛烈であり、痛快でもある。
ある知識は、なにごとかを「既知のもの=すでになんだかわかっているもの」として扱おうとする。
知識と知恵はひとつの営みの二つの側面
今日の知識は、様々な専門的な方法によって生み出される。
精緻に定められ専門家の間で共有された手続きや方法に従って研究の対象、実験の対象となるモノが捉えられる。研究、実験の対象となるモノは、曖昧さを取り除かれた純粋な姿を表す。そうした純粋な対象は、よくわからない謎の他者ではなく、排中律の論理で記述された「それが何であるか」を確定的に記述されたモノである。そうであるからこそその変化や、他のモノとの関係を予測しシミュレートし、それを操作する技術を確立できる。こうして専門的な高度な「知識」が成立する。
ところで、この予測可能性と制御可能性は、あくまでもある対象をそれとして観測し測定し、確定的に記述する個別の知識の体系の内部においてのみ成立する。
知識の体系の中で一定の変数の関係として記述され、予測可能性を獲得した事柄が、その知識の外部や、別の知識の体系にとっては、とらえどころのない予測不能で制御不能な事柄として浮かび上がる。
我々の世界に存在する様々なものは、個別の「知識」を超え出たものである。個々の知識の体系は、世界の様々な様相を、それぞれの方法と道具、技術によって照らし出し、切り取り、対象化する。それは同時に知識の対象とならない「外部」を区切りだし、知識の外に残したままにするということでもある。
もちろんこのことは、知識の欠点でもなければ、難点でもない。
複雑に流動する不安で謎めいた世界を、専門家の間で共有された概念と方法、道具を用いて客観的な対象に変換あるいは写像できることこそが、世界の予測可能な領域を広げ、制御可能な領域を広げてきた科学技術の力の源泉でもある。
課題があるとすれば、確かなものとして記述できなかった知識の対象の周縁あるいは外部、または背後が、放置することもできなければ無視することもできない切実なものでありつづける、ということである。
それをインゴルドは「他者」と呼び、他者を「真剣に受け取る」必要性を論じるのである。
そうした切実な他者たちと向き合うために、個別の知識は「知恵」とともにあることが必要なのである。
知恵は世界の「周縁」に不安なもの、確定的に記述し尽くされていないものとしての特定の知識が捉えることをしなかった「外部」の沈黙を響き渡らせる。他者の沈黙の声は、個別の専門知識の体系の内部と外部の境界に衝突しては、知識を不安に陥れる。それが良いのである。
この外部を未だ記述されていないものとして、新たに記述するよう試み、促す知恵の言葉こそが、異なる知識の体系をつなぎ、新たな「知識」の創造という永遠の営みを動機づけるのである。
おわり