「多自然主義」とは? ーヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』を読む(3)
最近の人類学の本はおもしろい、というお話。前回に引き続きヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』を読んでみる。
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もちろん「最近」のものではない人類学の本もおもしろい。特に個人的におすすめしたいのはやはりレヴィ=ストロースの『神話論理』である。
神話論理についてはこちら↑の記事にも書いているのでぜひご参考にどうぞ。
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ヴィヴェイロス・デ・カストロは『食人の形而上学』においてレヴィ=ストロース以前と以後で、人類学の対象がガラリと変わったと書いている。そして『食人の形而上学』の議論もまたレヴィ=ストロースの「構造」の考えに導かれているという。
人間が「人間ではない−もの−ではない−もの」としてはじまるところ
ヴィヴェイロス・デ・カストロによれば、レヴィ=ストロース以前の人類学は、その名の通り「人類」を対象とする学であった。「そりゃそうだろう」と思われるかもしれないが、問題はこの人類”なるもの”である。
そこでは、まず「人間」というものが存在していることを前提にして、その上でその「人間」なるもののを細かく詳しく調べていくことで、人間の中身の特性や動き方のパターンを解釈しようというアプローチになったという。
その中身は詳しくはよくわからないが、まず「人間」というものが初期条件で与えられているとしたうえで、その中身を詳しく見てみましょう、という問題の立て方である。
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それ対して、レヴィ=ストロースは「構造」というものを「人間」よりも先に、手前に、置いたのである。「人間」から始めるのではなく、「構造」から始める。
そうすることで「人間」は、他の何物にも先行して「はじめから人間として」ぽんと与えられて存在するもの…ではないということになる。
「人間」は「構造」の中で、多様に異なりながらも似たようなパターンで動いて(動かされて)おり、その似たような動きの痕跡が寄り集まったものとして、人間の行動や思考や態度の特徴が発生する。
人類学者が観察可能な対象として発見する、多様な人々の行動や思考や態度というものを、「人間」に起因するものというよりも、「構造」に起因するものと考えるわけである。
人間自身を含む人間にとっての世界をそれとして出現させているのは「人間」ではなく、「構造」の方である。構造こそが人間に先立って動いており、その構造の作用を通じて我々人間、いや多様な文化の中の多様な人間がそれぞれ自分たちで「これぞ人間だ」と思い信じている人間なるものが「人間ではないもの(人間以外の、人間とは異なる何か)」から区別され、区切りだされる、という考え方。
これが「構造主義」と呼ばれる考え方の精髄である。
ふたつの「構造」観
ここでヴィヴェイロス・デ・カストロが注意をうながすのは、構造には二つのモデルがあるということである。
ひとつは構造を、動かないもの、静的なもの、固まったものと考えるモデルである。ちょうど建築物の構造を支える柱や梁のようなガッチリと安定した体系をなすものをイメージする構造観。
もうひとつは構造を、動くもの、流動的なものと考えるモデル。その動きは何かの目的やゴールに向かってまっすぐ進むように予めプログラムされた動きではなく、ふらふらと、どこへ向かうかもわからないまま漂っていく「ゆらぎ」である。
このゆらぐ動きが作り出すパターンとして浮かび上がるのが構造である、とするモデル。
このゆれ動く構造は、ちょうど水の流れに生じた渦のように、動きの中で、つかの間、周囲から区別されるパターンを再生産し続けようとする動きのパターンのことである。
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この二つの構造のイメージ。構造ということを静と動どちらで考えるかを巡って、長年論争が続けられてきたという。
ちなみに、レヴィ=ストロースご本人はどちらのイメージで構造を語ろうとしていたかといえば、特に『神話論理』の段階では「動的な」構造をイメージしていたと読める。その辺りのことはレヴィ=ストロース氏の『遠近の回想』にも書かれているのでご参考にどうぞ。
動的な構造観をつきつめると
さて、動的な構造の考え方を突き詰めてゆくと、なんというか、過激なこと(?)になる。
もともと人類学の概念体系の出発点には、ひとつの確固たる区別があった。それは「人間と自然」あるいは「文化と自然」、あるいは「精神と肉体」の区別と対立である。人類学の理論はこの対立を大前提としたところで組み立てられて来た。
ところが動く構造のイメージに大真面目に従うと、この人類学の初期条件ともいえる区別もゆらぎ、動くのである。
「人間」も「自然」も、構造の運動が束の間浮かび上がらせた渦のパターンとその外部との区別に見えて来るのである。
ここから出てくるのが『食人の形而上学』のメインテーマである「多自然主義」と「パースペクティブ主義」である。
単一の自然主義
従来の人類学が前提としてきた「自然」と「人間」の区別。それは細かく言えば「単一の自然」対「多数の文化」の区別である。自然の方は単一であり、人間の方が複数の文化の形態で現れる。
この単一(であるはず)の自然について、様々な人々が自分の部族それぞれの文化の枠組みの中で様々なパターンの解釈を行う。
人類学者はそうした様々な部族が繰り広げる多彩な「解釈」を、西洋文明の科学の言葉に翻訳して記述する。このことについてヴィヴェイロス・デ・カストロは次のように書く。
存在論的な一元論は、最終的には、認識論的な二元論(隠喩的と字義的、意識と無意識、表現と現実、幻想と真理など)を肥大化させることになる。この人間論が疑わしいのは、あらゆる概念的二分法が原理的に有害であるからではなくて、それがとりわけ、この二つの様相を統一した状態として、それぞれの住民の間にひとつの弁別を要求するからである。大いなる分割は、単一の自然主義なのである。(『食人の形而上学』p.58)
「自然」が、どの文化、どの部族の、いつどこのだれにとっても「同じ」「単一のもの」だと仮定するならば、それを認識しようとするいくつもの文化の間に、「単一の自然をどれだけうまく写し取っているか」という基準でランク付けができることになる。
例えば、西洋の科学と、アマゾンの部族の神話、それらのどれが一番「単一の自然」そのものをより適切に「客観的に」記述しているか、という基準で評価され、順位をつけられる。
ここからヴィヴェイロス・デ・カストロがいう「記述の序列化、植民地化」が広がり始めるのである。
認識される対象としての自然が、認識する主体が誰であるかかかわらず単一のものであるということになるならば、そこではあらかじめ「唯一の正解」が、自然そのものの中に書き込まれているハズだ、ということになる。それを正確に読み取るテクニックを与えてくれるかどうかで、文化の出来の良さが評価されることになる。
多自然主義
この「単一の自然主義」の問題を解除するために、ヴィヴェイロス・デ・カストロは「多自然主義」 を提唱する。「多自然主義」は、読んで字のごとく自然を一つのものではなく「複数のもの、多なるもの」と考える。
多自然主義は「自然」ということを、予めそれ自体としてぽんと与えられて転がっているものとは捉えない。自然というのは、それを「まなざす」生き物の活動を通じて、その生き物にとっての自然としてはじめてその姿を現す。
自然は、いくつもの姿で、それぞれの生き物のまなざしの中に現れる。
生き物は、それぞれの環境の中に身体をもって放り込まれ、環境の一部となっている。その生き物それぞれに特有の癖をもった感覚に支えられた視点(パースペクティブ)によって、自然が自然として見出される。
ヴィヴェイロス・デ・カストロの多自然主義では、「多数」の自然は、ある視点から全身で”まなざす”という運動の「単一性」と対立させられる。
まなざし、識別し、区別するという動き・処理の単一性が、いくつもの身体の中で動き出し、そして身体がそこに放り込まれている自然を、或る自然として自然「化」するのである。
身体的視線の錯綜と、身体的視線間の闘争と妥協が繰り広げられた結果として、それぞれの身体的視線にとって一応安定した或る自然がその身体と区別される限りで区切りだされる。
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ヴィヴェイロス・デ・カストロによれば、レヴィ=ストロースによる『神話論理』の試みとは、こうした「自然」化のプロセスを解釈する営みとして「神話」を読み直したものであったという。
『食人の形而上学』はこの多自然主義、「多数の自然」対「単一の人間的なるもの」の対立を出発点に、人類学の概念の体系を組み替えようとする。
そこに「動く構造」の運動が「多数の自然」と「単一の人間的なるもの」の対立をいくつも創り出したり再生産したり解消したりする運動の原理として、組み込まれる。
区別しつづける運動
『食人の形而上学』のはじめのところで、著者は以下のように書いている。
問題は、記号と世界、人格と物、われわれと彼ら、人間と非人間を統合‐分割する境界を破棄しなければならないということではまったくない[…]。還元主義の安直さや一元論の気軽さというのは、問題外である。むしろあらゆる分割線を限りなく複雑な曲線に捻じ曲げ、それらを「還元しない」こと、規定しないことが重要である。輪郭を消してしまうのではなく、それらを折りたたんで稠密化し、虹色にして輝かせ、回析させねばならない。(『食人の形而上学』p.23)
境界、区別を「破棄しなければならないということではまったくない」という宣言を繰り返し読み返したいところである。
区別を破棄するのではなく、むしろ、区別し続けること、区別を新たに無数に発生させつづけること。
そして区別を動的なままに動かし続けること。区別する動きが残した境界線は「複雑な曲線」を描きながらますます捻じ曲がる。ほかから区別されるなにかの輪郭は、消えるのではなく、折り畳まれる。
ここにはとても重要なことが書かれている。
区別ということを静と動どちらでイメージするかである。
わたしたちの「まなざし」を曇らせてしまうのは、静的な区別、止まってしまった区別である。
止まってしまった区別は、「認識論的な二元論」つまり認識される対象としての自然と、認識する主体としての人間のようなものの区別を固めてしまう。
区別はあくまでも動的に考えなければならない。それも目的をもった運動というよりも、ゆらぎ、ずれながら、それでいてパターンを描く運動として。静的に見える区別もまた、動的な区別の運動のパターンの束の間の類似性のようなものである。
そこで本書のタイトル『食人の形而上学』である。
食人とは、なんとも不穏当である。ヒトがヒトを食べる。ヒトを食べるようなヒトはとても人間とはいえない?あるいは食べられる人間はもはや対象であって人間とはいえない??
食人というコトバのもとで、「人間」をその外部と区別する輪郭がエラーを生じ始める。人間とその外部の対象との区別が揺らぎ始める。
このあたりの話は下記の記事にも書いているので、どうぞ参考になさってください。
関連note
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