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007 その肉体の官能性 映画「ノー・タイム・ツゥ・ダイ」最後のダニエル・007・クレイグ

No1:目を閉じ、死んだふりをしてじっと我慢していると、ようやく映画の至福の時間が訪れる。


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ダニエル・クレイグの007の完結編。

それを聞けば、何はともあれ、映画館に出かけるしかない。時間をやりくりして滑り込むようにして映画館の暗闇に侵入する。(現在の映画館は、信じられないことに上映時間の約15分前でなければ入れないのだ。しかも、待合の場所には座るべきベンチのようなものさえ存在しないのだ。切符を買ってポップコーンと飲み物と映画グッズを買って、映画を観る時間以外はさっさと出て行けと言わんばかりに。)快適な空間の中で快適な椅子に座って、お知らせという名前の情報を無理矢理、浴びせ掛けられる。まるで、拷問のように。(いったいいつから映画館は広告だらけの場所に成り下がってしまったのだろう)、本編が始まるのを辛抱強く忍耐強く待つ。目を閉じ、死んだふりをしてそれをじっと我慢していると、ようやく映画の至福の時間が訪れる。

No2:ノー・タイム・ツゥ・ダイ その時ではない、死ぬのは

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ノー・タイム・ツゥ・ダイ 死ぬ時間はない

何というタイトルなんだ!!! ジェームズ・ダニエル・007・クレイグ・ボンドとの別れの映画のタイトルとして、これしかないのかもしれない。しかし、ノー・タイム・ツゥ・ダイと、今、その言葉を書き込んでいるわたしの瞳は涙に溢れ、その言葉を刻む文字を鮮明に見ることさえできない。

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ノー・タイム・ツゥ・ダイ(「死ぬ時間はない」(死んでいる暇などない)、あるいは、「死なない」)と言いながら、なぜ、別れなければならないのだ。なぜ、ジェームズ・ダニエル・007・クレイグ・ボンドは去ってゆくのか。なぜ、わたしたちは、あの壮絶な結末の光景を目の当たりにしなければならないのか。

あまりにも、切なすぎるではないか。あまりにも、辛すぎるではないか。
あまりにも、あまりにも、あまりにも。

ノー・タイム・ツゥ・ダイ(NO TIME TO DIE)

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ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)


No3:ジェームズ・ダニエル・007・クレイグ・ボンド、撒き散らされる弾丸の嵐の中を、唸りを上げてアストン・マーティンが疾走する。

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約束通りに繰り広げられる、約束通りのいつもながらの映画007の世界。

美女と派手なアクションと世界の危機と破滅、謎の首領の率いるダーク・サイド集団、秘密基地、秘められた過去、裏切りと献身、玩具のようなガジェトの数々、不死身の007、撒き散らされる弾丸の嵐、肉体と肉体の激しい衝突としての格闘、魅惑的な場所、次々と切り替わる舞台、古き中世の街並みから現代の最先端の都市から南国の島から夜の海から荒涼とした北の森から絶海の孤島まで。約束通りの、設定とストーリー。

残忍で執拗な悪役、運命に翻弄される悲しい過去を持つ美女、修羅場を伴に潜り抜けてきた相棒、頼りになる友人たち、約束通りの007印の押された登場人物たち、彼ら、彼女らとともに、007は終わることのない戦いの中に身を投じる。

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007は世界中を駆け巡る。唸りを上げて、道なき空間を疾走するアストン・マーティン、弾丸の猛攻を、耐えに耐えた後、激しく咆哮し反撃するアストン・マーティン、正装の007と着飾った美女のエージェント、華やかなるパーティ、全ての決着をつけるために戦闘服に身を包みマシンガンを携え敵地に侵入し、暴れまくる007。

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ラスト・シーンに収斂すべく、ダニエル・007・クレイグの肉体が跳躍する。無数の飛び交い降り注ぐ弾丸の雨の中、その弾丸のひとつとして、その肉体を傷付けることなどありはしないことを知りながらも、わたしたちはその躍動する肉体の放つ最後の輝きに陶然とし、刻一刻と迫りくる、その最後の時を迎え入れ、その時を見極めるしかない。

わたしたちは、その映像の光のダンスの流れに身を任せれば、それでいい。
それだけでいい。

流れる、至福の時間が。

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No4:ダニエル・クレイグ、その肉体の官能性

映画007は肉体の官能性を愛でるものだ。ひたすら愛でる。何処までもその輝ける黄金の肉体が放つ美しさを愛でること。007はそのために存在する。映画というテクノロジーは人間の肉体の官能性を愛でるための巨大な装置だ。聡明さと愚劣さの混沌たる知とシステムの奔流の中を華麗に波乗り、そのアイコンを高度資本主義に刻印し君臨する偉大なる不滅の映画007。

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007の映画に用意され配置された全て、脚本、脇役、悪役、舞台、ガジェット、ストーリー、そして、美女、それらは全て、007、その官能性を輝かせるためのものに過ぎない。その荒唐無稽さ、複雑さ、豪華さ、安易さ、唐突さ、間延びさ、速さ、遅さ、それらの無数の記号がその肉体の官能性の周りで乱舞する。

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全てが、ダニエル・007・クレイグ、その肉体の官能性を賛美するために。わたしたち観客は映画館の暗闇の中で、その官能性の海に溺れ、映像という光の官能性を可能にした、映画という技芸が存在している時代に生きていることの限りない幸福に感謝し、ダニエル・007・クレイグとの別れに涙するしかない。

理屈なんかいらない。
その官能性を愛でろ。ひたすら、その官能性を。

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No5:さらば、ダニエル・007・クレイグ。ありがとう、ダニエル・007・クレイグ

わたしは、映画「ノー・タイム・ツゥ・ダイ」のダニエル・007・クレイグのラスト・シーンに胸が引き裂かれるような思いに包まれてしまった。そのあまりにも苛烈で凄惨な最後に息が止まり号泣するしかなかった。映画の終わりにひとつの集まりが催され、007への別れがそこで確定してしまう。親しき者たちによってなされる静かなるささやかな集まり。その場の中心に置かれたひとつのグラス。手に取るべき者が手に取ることのないグラス。小さなテーブルの上のその透明なグラスの中で酒が琥珀色の光を放つ。

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わたしたちは、ダニエル・007・クレイグとの離別を受け入れるしかない。

その時が来たのだ。

もう、その姿を、再び、観ることはできない。ダニエル・007・クレイグ、その肉体の官能性を、再び、観ることはできない。痛切さと残酷さ。映画は時に人に痛みを与える。エンディングロールの中、007音楽に浸り、映画館の闇の中で深く椅子に沈み込みその痛みに耐える。溢れ出る涙を拭いながら。

だが、その肉体の官能性の光を浴びた歓びは、決して、朽ちることはない。

さらば、ダニエル・007・クレイグ。
ありがとう、ダニエル・007・クレイグ

さよなら、ダニエル・007・クレイグ。

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