『もう死んでいる十二人の女たちと』 パク・ソルメ (著), 斎藤 真理子 (訳) 今年上半期、最大の収穫。心の中の本当を引き出すために、心をゆるゆるに揺さぶる。そういう思考のスタイルが、そのまま文体になっている。こういう小説を読みたかったのだ。
『もう死んでいる十二人の女たちと』 (エクス・リブリス) 単行本 – 2021/2/23 パク・ソルメ (著), 斎藤 真理子 (翻訳)
Amazon内容紹介、長いので冒頭部分
ここから僕の感想。
やばーい。今年も半年過ぎて、だいぶいろいろ小説を読んだが、これは『ミルクマン』と並ぶ、衝撃作。こういう本と出会うから、もう、いや、ほんとに凄いな。
二編、いちばん初めと一番最後が、女性連続殺人事件に関わるもの。三編が原発事故に関わるもの。(福島原発と、釜山郊外にある古里原発の。)。光州事件に関するものが一篇。作者は光州市の生まれ育ちだという。事件の後の生まれだが。というと、「社会派の真面目な小説か」と思うかもしれないが、いや、そうかもしれないが、全然、違う。文体が、ものすごく新しい。現実的な小説と、マジックリアリズムのような、幻想的な設定のものとが混在する。小説は自由で力があるのだ、ということを、これほど強烈に思い知らされる体験は、あまりない。
原発事故について、僕はずいぶん考えてきたけれど、この本所収の「冬のまなざし」という小説の、この部分を読んで、ああ、僕が感じていたのはこういうことだ、と思った。
まず、実際には、古里原発では福島事故以前にも以降も、何度も繰り返し、小さな事故が起きているが、チェルノブイリや福島のような大規模な事故は起きていない。この小説の設定は、古里原発で、福島のような大きな事故が起きて、隣接する釜山の、高級住宅地として栄えた「海雲台」という場所も人が住めなくなっているという設定。福島の事故から受けた衝撃を、韓国の古里原発に投影させて、想像し創造された小説のようなのだが。
小説中、その古里原発大事故についてのドキュメンタリー映画を、主人公は観る。監督が来ている小さな上映会のような場所で、上映後、監督とのディスカッションがある。といっても、五人くらいしか参加者はいないのだが。
そのあとで、映画の挿入歌を歌ったフォーク歌手の男性と、「僕はあの監督、きれいごとすぎるかなって」と意気投合して、しばらく一緒に過ごす、と話は展開していくのだが。
女性の連続殺人事件も、光州事件も、原発事故も、「こういう態度で、こう語られなければならない」と言う真面目なきれいごとがあって、そこから外れるとふざけているとか不謹慎だとか、そういうことへの自己規制が何かを表現しようとするときに必ずかかってきて、それは他者からだけではなく、自分の中に自動的にかかってきて、しかしたとえばそういうことと自分の間には、それぞれの時間的空間的心理的距離が固有にあって、ほんとうの怒りとか本当の気持ちとかほんとうに見たいもの、本当に犯人に対して言いたいことやりたいこと、そういうのは、そういう自分を内から規制するものを、ゆさぶってゆるゆるにして、自分の心が感じていること本当に見たいものをはっきりと掴みださないとそれはいけないことで。
この本に収録されたどの小説でも、論理的ではなくても、本当にそういう風に感じたり理解したり欲望したりする、そういう心の在り方、思考のスタイルが、そのまま文章のスタイルになっている。そこに圧倒的な新しさと、読むことの快感があるのだよなあ。
あと、福島原発のことだけじゃなく、たいていの小説に、日本の何かが、例えば京都に旅行したときのエピソードとか、別に特別なこととしてではなく、ちょっとだけ出てきたりする。ああ、そういうふうに、韓国は日本とお隣さんなんだよな、という感じがしてくる。日本の中の韓国を嫌う人、韓国の中の日本を嫌う人、そういうことは全然書かれなくて、かといって、すごく大好きとかいうのでもなくて、1985年生まれの今の韓国の小説家が、自分の生活や体験に素直に小説を書いたときに、それくらいの感じで日本のことが混じるというのは、そうなんだろうなあと思う。世界の文学をいろいろ読んでいて、韓国の小説を読むと、やはり、隣の国なんだよな、違うところもあるけれど、分かることも、多くあるよな。そんなことも思いました。
いや、これは、普段小説を読まない人も、韓国のことが、好きな人も嫌いな人も、お隣の国の、若い女性作家の目を通して、ものすごく新鮮に、いろんなことを感じたり考えたりさせられる、今年上半期、最大の収穫のひとつだな。超・おすすめ。
翻訳をした斎藤真理子さん。巻末解説もていねいだが、何より、この画期的文体を、きっと韓国語としても画期的なんだろう感じを、よくぞ、こんな素晴らしい日本語に翻訳してくれて、もう、ありがとう、百回言いたい。
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