『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か』 朱 喜哲 (著) を読んで。ここ何年も僕がモヤモヤと考え続けてきたことに、くっきりとした輪郭を与えてくれる素晴らしい論考。この戦争のことを考える上でも極めて有益。おすすめ。
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感想の前に。読んだ経緯
この本は、電通大阪支社(僕が在籍していた当時の呼び名、後の関西支社)の先輩、四國光さんがFacebook投稿で紹介していて、読んでみた。その四國さん投稿コメント欄には、本書著者、朱喜哲氏自身が四國さんに向けて「センター長」とおそらくお二人が交流があった当時の四國さんの役職名で語りかけるコメントがあり、さらに、僕が在社当時とてもお世話になった尊敬する先輩、山田雅信さんも著者に優しく後輩に語りかけるようなコメントがあった。どうもその様子から見るに、著者の朱喜哲氏は、いったん電通関西支社に就職してビジネスマン経験をした後、大学に戻り哲学者となったようである。著者は1985年生まれ、今、37~8歳だろう。私より22歳も年下の方である。私が電通大阪支社に在籍したのは1985年から88年、著者が電通に在籍していたのはおそらく2000年代半ばくらいだろう。当然、私とは全く接点はなかった。
ちなみに四國さんは1956年生まれ、山田雅信さんは正確には分からないが、1954年生まれくらいだと思う。今現在、電通と言えば、日本の自民党政権の黒幕で、汚いことには全部絡んでいて、なんでも中抜きをして、という「日本最大の悪役黒幕企業」イメージがすっかり定着してしまっているが、当時の、それくらいの年齢の大阪支社の先輩には、政治的にははっきりと進歩的リベラルであり、そして文化人的教養と知性をお持ちの先輩が一定数いた。後に関西支社長になった服部さんもそういう方だった。(もちろん全然そうではない、みなさんが電通の人としてイメージするような、ギラギラしたブルドーザーみたいなおっかないタイプや、女好き派手好き遊び人や、有能だがお調子者業界人、謎のフィクサーみたいな人とか、そういう人のほうがマジョリティだったのだが)。
山田さんは、「文学的知性と教養と政治的リベラル」の合わさった物静かな先輩で、ある広告主の仕事でものすごくお世話になった。そんな山田さんに「原君、四國さんて知っているかな。こんど四國さんと話すと面白いと思うよ」と言われていたのだが、結局、私がすぐに会社を辞めてしまい、四國さんとはFacebook上でコメントを交わし合うようになったのはここ数年のこと、四國さんも私も仕事、広告界から引退した後のことだ。四國さんはお父様、反戦の画家、詩人、四國五郎氏の業績を広める活動に本格的に取り組まれ、最近『反戦平和の詩画人 四國五郎』を上梓された。
四國さん、山田さんという大阪電通の良心とも言うべき人たちに、朱さんという当時新入社員の若者が愛され大切にされ、そして学者さんの世界に戻って行ったのだなあということが垣間見られて、「なんかとてもいいなあ」と思ったのでした。
さて、この本の話。感想はここから。
ものすごくたくさんのことを語りたくなる本でした。ここ最近、というか、長いこと、というか、私が考えてきたことに、きわめてくっきりとした輪郭、考える補助線を与えてくれる本で、今、この時期に読む奇跡、というようなことさえ感じてしまった。
まずは直近、読んで感想を書いたフランシス・フクシマの『リベラリズムへの不満』と、問題意識や語られる領域テーマが重なっている。語られる順序と論の組み立ては全く異なるが、ロールズの『正義論』をめぐる、「善の構想」と「正義」を分けて扱うこと、「放っておく自由」についての議論があり、トランプ現象の政治哲学的意味付けの分析があり、アイデンティティ政治、ポリティカルコレクトネスについての分析が扱われている。フクヤマと朱氏のこれらのことに対する分析のありようは近いが意見立場はかなり違う。と思う。ロールズとサンデルの比較対比において、フクヤマはサンデルの肩をやや持つ「正義と善は分けることはできない、分けるべきではない」という立場に共感を示すが、朱氏の主張の根幹は、まずはここを明確に分けるところにある。これはフクヤマ氏の本の方の感想文に書いたが、私は朱氏の主張に賛成である。一方で、アイデンティティ政治に対してはフクヤマ氏ははっきりと批判的であるが、朱氏は弊害欠点があることは認めつつ、基本的にはアイデンティティ政治を肯定する立場であるように読める。この点では、私が日本国内においては多数派に属するためであろう、ややフクシマ氏寄りの意見であることを読みながら確認した。
「残酷さ」をめぐる議論と、力の勾配の問題というのは、さらに直近、パレスチナ問題について書かれた小説『無限角形』コラム・マッキャンの感想文や、かつての映画を思い出したとして書いたFacebook投稿『セデック・パレ』をめぐる考察と直結した問題意識であり、善の構想は一致しようがない(一致させようとすべきでないが)、「悪」=残酷さを減らすという点では、つまり悪については人間は生理的に感情的に一致できるのではないか。いやいやしかし、というそこの議論はずっと考え続けてきたところなので、納得できるものであった。
https://note.com/waterplanet/n/n13e0ccd3548d
https://note.com/waterplanet/n/n0fc3969388c3?sub_rt=share_pw
そこからの延長線としての、残酷さの低減と私的な(文学の)言葉の役割と言う点は、これは『観光客の哲学』から『訂正可能の哲学』東浩紀著、の中での、ハンナ・アーレントの公共の(政治の)言葉と私的領域の(文学の)言葉の関係を論じ続けていること、それをずっと考えて続けていたので、これも「私はなぜ文学の言葉を読み続けるのか、それを通して世界を理解しようとするのか」に、非常に明確な答えを示してくれていて、この部分は特に納得しながら読んだ。これはつまり、加藤典洋をめぐってここ数年ずっと考え続けていることだったので。著者に感謝です。
もうひとつ、この本を読んで深く納得したのが、「ふたつの自由」、特に消極的自由、「放っておいてもらえる自由」ということ。自由には何かを積極的にすることに対する自由と、「放っておいてもらえる」自由があるという話。これについては、ウクライナの戦争が始まって以降、なぜ自分が戦争について考えるとこれほど悲しくなるのか、それは死の恐怖とかいうこと以前に、「動員されてしまうこと」、ウクライナの18歳から60歳の男性が国外に出られなくなっているというニュースを見てからの私のの精神状態の極端な抑鬱状態について、「祭りと戦争と動員」ということを考えていたことについて、よりくっきりと「私は何が嫌なのか」が分かる話であった。そのことについて書いたnoteを後で張り付けておこう。
https://note.com/waterplanet/n/ne8e674c18fc6?sub_rt=share_pw
さて、最後に、この本を読んでいていちばん考え込んでしまったことが、6章、「関心をもつことはいいことか」。ここで著者はあらゆることを「自分ゴト化」=自分の利害として関心を持つことを戒める。何事にも関心を持ちすぎる私、何でもかんでも関心を持って知りたがる私への戒めとして、この章のまとめのところを引用して、感想はおしまい。