『原因―一つの示唆』トーマス ベルンハルト (著) 今井 敦 (翻訳) 怒りで同じことを何度も繰り返すこの文体と思考の中に、いったん入ると、出られなくなるのである。
『原因―一つの示唆』
トーマス ベルンハルト (著), Thomas Bernhard (原名), 今井 敦 (翻訳)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
いやはや。なんとも、
ベルンハルト作品を読むのはこれが二作目。前に『推敲』という、ヴィトゲンシュタインをモデルにしたと思われる哲学者の遺稿を整理していくという不思議な小説を読んで、感想も書いた。
読書師匠しむちょんは、ベルンハルトの小説をかなり網羅的に読み進めている。一回、読み始めると、ハマるタイプの小説家である。文体と思考のスタイルが一体となって、読み始めるとその中から出られなくなるのである。
役者の今井敦氏があとがきで書いているが、ちょいと引用
『推敲』のときも書いたが、ベルンハルトは言いたいことがあると、少し違う表現で、少なくとも三回くらい、同じ内容を書く。多い時は二ページくらい進んでもまだ同じことを言っている。「憤っている」ので、止まらないのである。
生まれ育ったザルツブルグの街に対して。そこの住民に対して。寄宿学校、入った時はちょうどナチスがオーストラリアを支配していた時期で、寄宿舎の舎監はナチスの将校である。その舎監に対して。いやそれだけでない、寄宿生の、今でいうイジメのような、理不尽で暴力的なその寄宿舎のありように対して。終戦後はカトリックの学校と舎監に替わるのだが、それに対して。ナチスとカトリックの共通する人間を支配する何かについて。親に対して。教師に対して。はじめは「基幹学校」というふつうの中学校だったのだが、戦後は高等教育につながるギムナジウムに通うのだが、それに対しても激しく批判をし続ける。
文体も書かれている内容も、普通に考えると読みやすいものでもないし、読んで面白い内容ではない筈なのだが、これが読み始めると、ベルンハルトの思考と文体の中に捉えられて、なんだか、へんな感じで楽しくなってくるのである。
戦争後半の、空襲の中での寄宿生活の描写、空襲後の街の中を歩き回り、破壊された建物と死体を見て回るところなども、戦争の中で中学生くらいの年齢を生きたことの生々しい記憶、その記録となっている。今のウクライナの戦争の中で暮らしているのはこういう感じなのかなあ、と思ったりする。
作中、ごく少ない良い、美しい思い出は、ベルンハルトが、今、作家となるにつながる芸術家としての道を開いてくれた祖父に関する記述である。無名の小説家であった祖父は、ベルンハルトにバイオリンを習わせたり、絵を描かせたり、ギムナジウムに通わせるのも祖父の、ベルンハルトを芸術や教養のある人間にしたいという思いからである。その祖父の思いを理解しつつも、ベルンハルトはギムナジウムに価値を見出せない。馴染めない。
その祖父(と母とその再婚相手と異母弟妹)が住んでいたのはザルツブルグから国境を越えたドイツ側のトラウンシュタインという小都市、その郊外の田舎街なのだが、歩いて毎週末に、本来は禁止されている国境越えをして、祖父のところと寄宿舎をいったりきたりする。これもなんというか、不思議な体験で、今のようにベルンハルトがなった「原因」なのだろう。
この自伝五部作というのは、ベルンハルトがある有名になった後、評論家や研究者に勝手に誤った生い立ち経歴と結びつけて作品が論じられるのに腹を立ててのことなのだと、あとがきで今井氏は書く。またまた引用。
引用部分を引用してしまった。まあ、そういうわけで、怒ると同じことを繰り返して猛烈になんか、書く。そういうことには生理的な必然があって、そういう文章を読むのは、面白いのだよ。五部作というけれど、今のところ三冊しか翻訳されていないようなのだな。続けて読もうかな。どうしようかな。