『悪い娘の悪戯』マリオ・バルガス=リョサ (著), 八重樫 克彦, 八重樫由貴子(翻訳) 買ってほぼ10年間積んであったのを、今、ようやく読めるようになった。主人公最終章あたりの年齢に僕もなったからかもしれない。老いて肉体が衰え、そして愛だけが残るのである。
『悪い娘の悪戯』 2011/12/23
マリオ・バルガス=リョサ (著), 八重樫 克彦 (翻訳), 八重樫 由貴子 (翻訳)
Amazon内容紹介から
ここから僕の感想
Amazonの購入記録を見ると「この本を 2015/5/11 に購入しました。」とある。9年というか、ほぼ10年前だ。そのときは全然、読めなかった。第一章でつまづいて、そこから先へ進めなかった。
10年前と言えば、中学の同級生しむちょんとFacebookで何十年ぶりに再会したら、彼がすごい読書家になっていたので、勝手にしむちょんのことを読書師匠と思い定め、彼の読書遍歴の後をついていこうとし始めた頃なのだが、当時はほんとに読書力が無かったのである。読書力と言うか、世界文学の読み方の基本が分かっていなかったのだな。どういうことか。説明してみたい。
どんな街、どんな時代かだけは、ひと手間かけて調べながら、読む。世界文学を楽しむための基本動作。
前にも書いたが、しむちょんは世界で活躍するアンダーガラウンド・サイケデリック・ロックバンドのドラマーなので、世界の本当に隅々まで旅してまわった経験がある。だからしむちょんは、世界文学、中南米でも北米でも、東欧でも北欧でも、「ああ、あの町、あんな感じのところを舞台にしているんだな」っていうのがリアルにわかっちゃっているから、世界文学、あらゆる国の文学を読んでも、その理解のはじめの段階「どんな街の中でそのことが起きているか」の理解速度がすごく正確なのだな。もちろんその先の、内容読解力理解力、そして本の中心を心で読む達人なのだが。にしても、読書入り口の突破力がまず凄いのである。
それに対して、僕はアメリカに仕事の出張で二度ほど行ったことがあるだけで、それ以外の世界の国には行ったことがない。国内専用仕様で生きてきた。だからね、小説世界に入る入口では、そこは、いまどきのインターネット上のいろいろ便利な物、グーグルアースとか、その中のストリートビューとか、Google検索での観光案内ブログとか、そういうので、街並みの感じというのは、見て回ったほうがいいのだな。
いやいや、文章と想像力で楽しむのが文学の楽しみ方でしょ。そこでストリートビューとか見ちゃだめでしょ、と考えたあなた。違います。
世界文学を読むとき、文学ってもともと「世界文学」なんていう構えでは書かれていなくて、「国民文学」として書かれたものが世界化していくだけなんだな。「国民文学」とは何か、と考えると「主人公のことを、自分だとか、自分の子どもだと思って共感できる」、そういう無意識の共同体を前提として書かれている。逆に言うと、国民文学を共有することで「何国人」という意識が形成されていったのが、近代から現代にかけてのナショナリズムと文学の関係なのだな。
中南米だと、広くスペイン語が共有されているけれど、それでもやはり、この小説もあくまで「ペルー人」である主人公が、ペルー人でありながら世界を、主に西ヨーロッパに脱出したいと望んで生きる、そのことを描いている、それに共感するのはまず「ペルー人」なのである。そのことを、世界の人が興味を持って読むのだな。
優れた小説が結果として世界文学となっていても、もともと小説というのは、ある国の、その社会と時代背景と政治的歴史背景と地理的土地勘みたいなものが共有されていることを前提として書かれているのだな。読者に基本的知識があること前提で、かなり省略されて書かれちゃっているのである。
話が飛んでたとえ話をすると、日本の近代から現代文学が「戦後の銀座」とか「明治初期の熊本」とか「バブルの時の六本木」とか「冬季五輪の頃の札幌」とか言われれば、現代日本人であれば、行ったことは無くてもテレビのドラマとか映画とかバラエティとかクイズ番組とかで、なんとなくだいたい頭に浮かぶ。バブルの頃の「銀座」というのと「六本木」というのと「渋谷」というので、どんな感じで違うか、そういうことが頭に浮かぶ人を前提に小説って書かれているんだよな。
この小説、1950年くらいのペルーのリマの中の「ミラフローレス」という、いちばんお金持ちのお屋敷があって、ホテルや映画館があって、そして崖をおりるとサーフィンが出来る海岸が広がっていて、そういう「ペルーが民主的で豊かな国になれそうな予感に満ちた、都会的な街と時代」に中学2年生くらい、14歳から15歳くらいのときにそこそこお金持ちの男の子が、夏休み、チリから来たという美人姉妹のお姉さんのほうに一目ぼれする、っていうところから始まるのだな。
小説世界に入っていくには、リマっていう大都市の中の、ミラフローレス地区という、田園調布に銀座が隣接していて、そこから崖を下ると湘南の海が広がっている、みたいなそんな夢のような街で、中上流階級の中学生たちの夏休み、遊んだりパーティしたりしている夏休み、っていうのを、リマの街の写真をグーグルで探したり、1950年代のベルーの政治や経済がどんな感じだったかをウィキペディアでちろっと調べたり、そういうひと手間をかけた上で想像するのであるる。日本人が読むのだとすると。そうしないと、小説世界にはすんなりは入っていけないのだ。
お話はその後、(Amazon内容紹介にもあるように)1960年代のパリ、1970年代のロンドン、1980年代のマドリッドと世界の都市に舞台を移して、その初恋の人(実はめちゃくちゃな悪女、悪い娘、スペイン語で「ニーニャ・マラ」)に、主人公は翻弄され続ける。ひどい目に必ず遭うのに、それでもずっと愛し続ける。
そういう運命の女への愛を描いた小説なんだけれど。それぞれの住んだ町は、パリ、ロンドン、マドリードの中でも厳密にどこの街って描かれていて、そこってどんな街並みなのかなどんなものがあるのかなって、やはりちゃんと見て回らると(もちろんグーグルマップとかそういうので)、なるほどなあと思うのである。この手間は、惜しまない方がいい。ちゃんとそういう手続きを踏みながら読むと、本当に、登場人物と一緒に世界中を、時間旅行しているような楽しい体験ができるから。
そしてそれぞれの時代、ペルーの政治がどんな具合になっていて、それと関連した世界の動向がどんな具合になっていて、そういうことが分かったほうが、小説の中身がよりいろいろ細かく理解できる。主人公の気持ちや立場や、そういうことが分かるのである。
三島由紀夫の娯楽小説みたいな感じがある
バルガスリョサ作品を読むのは4作目くらいだと思うのだが、今まででいちばん、力が抜けているというか、自伝的というか、なんというか、三島由紀夫の書いた中間小説みたいな味わいの小説である。いや、もちろん例えば女性視点でフェミニズム批評的に読めばすごく重たい話だし(運命の女、ニーニャ・マラの受けた虐待と心の傷とか、そういうことに注目すればそうなるし)、時代や政治との関りを見れば、世界史的大きな動きが書きこまれてはいるのだけれど、それでも、全体に「三島由紀夫の中間小説」みたいな、すごくうまい小説家が楽しんで書いた娯楽小説的な味わいがあるのだな。
悪い娘に出会う旅にひどいめにあって、ぼろぼろになっては「もう二度と会わない」と思うのに、世界のどこに行っても、思わぬ形でニーニャ・マラは現れるのである。再会するたびに、主人公はもういてもたってもいられなくなるのである。この、繰り返しパターンが、もう娯楽小説のかんじなのだな。だから、なんか小難しい政治小説を読むのだ、みたいな構えはいらないのだな。主人公と一緒に世界の都市に住みながら、悪女との出会いと別れの繰り返しに身をゆだねればいいのである。
日本人は変態なのか。
世界の都市ということで言うと、東京も舞台になっていて、ここでもうとんでもない変態、フクダという日本人の愛人としてニーニャ・マラは登場するのである。そして、日本文化の精髄、ラブホテル「シャトー・メグル」で・・・・。 ちょっと引用する。主人公の友人、日本の大企業ミツビシで働く天才通訳タルジュマンの語ることを、主人公が紹介しているところ。(主人公も通訳で翻訳家である。)
どう考えても目黒のホテル・エンペラーのことだと思うのだよな。ミツコというのはタルジュマンの日本人の恋人である。
急に自分の話になるが、1980年ころ、高校三年生から大学生なりたてくらいの僕は、「ラブホテル」というと、「目黒エンペラー」しか頭に浮かば無かったのである。当時、そういう時代だったのである。だから、その時代にバルガス・リョサが東京に来て、ラブホテルを取材したいと言ったら、きっと目黒エンペラーに行ったんじゃないかと思うのだよな。回転ベッドとかちゃんとあって、エマニエル夫人の、あの籐椅子ブラブラみたいなのが置いてあって。なんで知っているのかは、内緒である。
シャトー・メグルとミツコ、と出て来て、思わず変なことを思い出してしまったのである。僕は特別スケベだったり変態だったわけではなく、知的好奇心が強かっただけである。ラブホテルというものを知りたかったのである。
さて、変態と言えば、ということで小説の話に戻る。
なんか、海外の文学者から見て、いちばん変態なのは日本人、というイメージっていうのがあるのかなあ。フランスのミッシェル・ウェルベックの『セロトニン』でも、日本人がすんごい変態として登場したもんなあ。佐川君事件(パリ人肉事件)が1981年だからなあ。そう、この「シャトー・メグル」の章は1975~80の間のどこか後半のあたりの設定だ。このド変態フクダの外観とか人物に、佐川一政が投影されているような気がする。フクダの容貌の描写部分を引用しておく。興味のある人は佐川一政氏の写真を検索して、下の描写と弾き比べてみるといいかも。
愛、愛なんだな。結局、大事なのは。
この変態フクダに、主人公男性もひどい目に合うけれど、ニーニャ・マラは本当にひどい扱いを受けて、心にも身体にも大きな傷を負うわけだが、その回復を助けることで二人の愛は深まってめでたしめでたし、となるかというと、そこからまだまだだって東京篇は1970年代後半で、小説は1980年代のパリからマドリッドへと舞台を移してまだまだ続くわけで、そうやって年老いていく二人の愛、というものの行きつく先は。60歳を過ぎた僕としては、どうしてもこの「人生の終わり近く、年老いて衰え老いてぼろぼろになっても愛し合う」「いや、そうなったからこそ、愛だけが残る」というような、そういう小説というのが、心に沁みてしまうのである。バルガスリョサとは不仲(突然殴り合いをした事件、政治的立場の相違からとか言われたが、どうも妻にちょっかい出したださないみたいなことのようだが)なガルシア・マルケスの『コロナの時代の愛』でもそうだし、ミッシェル・ウェルベックの『滅ぼす』もそうだったし。そういう、人生の長い時間をかけていろんなことがあって、最後肉体的には老い衰え切った先の愛、だからこそ純化していく、そういうことを、年老いた男性小説家たちは、描いていくのだな。
今年、最後の感想文になるかな。もう一冊くらい読み切れるかな。今年もたくさんいい小説を読んで、幸せな一年であった。老いておしっこが近くなり、尿漏れと記憶の衰えを気にするような、そういう主人公の小説をたくさん読んで、ものすごく共感するようになった一年でありました。今、読みかけの小説もそういうやつだな。それを年越しから新年にかけて読むのである。まだしばらく、人生は続く予定。