『侍女の物語 』マーガレット アトウッド (著),ディストピア小説の名作、『誓願』を読む前に、まずは読んでみた。ディストピア小説としても傑作だが、女性が世界をどうとらえるのか、その世界の細部への繊細な分析・描写が印象的でした。
『侍女の物語 』(ハヤカワepi文庫) (日本語) 文庫 – 2001/10/24
マーガレット アトウッド (著), Margaret Atwood (著), 斎藤 英治 (翻訳)
Amazon内容紹介
「侍女のオブフレッドは、司令官の子供を産むために支給された道具にすぎなかった。彼女は監視と処刑の恐怖に怯えながらも、禁じられた読み書きや化粧など、女性らしい習慣を捨てきれない。反体制派や再会した親友の存在に勇気づけられ、かつて生き別れた娘に会うため順従を装いながら恋人とともに逃亡の機会をうかがうが…男性優位の近未来社会で虐げられ生と自由を求めてもがく女性を描いた、カナダ総督文学賞受賞作。」
ここから僕の感想。
この小説の続編の『誓願』が、昨年秋に日本で翻訳が出版された。小説内の世界も何年後の世界を描いているらしいが、小説の執筆、出版自体も30年の間がある。前作から続編の間に30年もあるというのは、どういう事情なのだろう。『誓願』の翻訳者、鴻巣友季子さんが、そのプロモーションもかねて、「日本のディストピア小説の名作」三冊を紹介してくれて、それを昨年末、読み終えたので、『誓願』に進もうかと思ったが、やはり前作から読もう、ということで、今年の小説読み始めはこの小説。30年前には鴻巣さんはまだ20代?なので、『侍女の物語』は、斎藤英治さんの翻訳。
キリスト教系宗教カルトがクーデターを起こして政権を取った、1990年代か21世紀初頭のアメリカが舞台。女性は職業も資産貯金も全部奪われている。原発事故や伝染病や環境破壊汚染のため、正常な妊娠出産が激減した社会。クーデター前に、不倫略奪婚的に再婚し子どもを産んでいた女性は「宗教的に罪深い」として、子どもを取り上げられ、「しかし、子どもを産む能力はある」ということで、子どものできない既婚支配階級男性の侍女として、子どもを産むことだけの目的でその妻や召使たちと共に、屋敷に囲われて生きることを強いられている、という設定なのである。侍女だけでなく、女性差別の様々な形があり、それぞれの役割ごとに着る服の色が決められている。侍女は赤い服に、白い顔隠しの羽の着用を義務付けられている。
このへん、聖書の知識がないと、どういうキリスト教的話を背景なのかかちょいとわからないので、また、畏友さとなおくんのnote「聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別にまとめてみる(旧約聖書篇13) 〜『サラとハガル、そして割礼の契約』」から引用する。(下線部クリックするとそのnoteに飛べるので、ぜひ全部読んでみて、面白いです)
アブラハムと、その妻、と女奴隷のハガル。夫婦寝室で、老女サラが、老いた夫アブラハムに、若い女奴隷ハガルをあてがう絵がたくさん紹介されている。ここでは二枚だけ紹介しておく。
「聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別にまとめてみる(旧約聖書篇13) 〜『サラとハガル、そして割礼の契約』」から引用。
「長い旅の果て、約束の地カナンに辿り着いたアブラハムとその一族。
※旧約聖書の重要登場人物のひとりアブラハムの物語の全体を俯瞰したい人は前々回の「ベストヒット・アブラハム!」参照。前回のストーリーを復習したい人は「アブラハムの旅立ち」参照。
でもアブラハムは、神がくれた土地なのにそこが飢饉になるとあっさり離れてエジプトに行き、妻のサラを王に抱かせちゃったりして、大金持ちになる。ほんとに聖人なのか疑惑。
で、王の怒りに触れてしまい、エジプトを追い出されてすたこらカナンに帰ってくるんだけど、暮らしには困っていない(ざっくりここまでが前回)。
で、ここからが今回になるんだけど。
彼らには深い悩みがあったわけ。
それは、サラに子どもが出来ないこと。
だって、神はアブラハムの子孫が「天」の「星」のように数えられないほど栄えると約束してくれたのに、子どもがひとりもできないのだ。
これ、サラも相当悩んだと思う。
サラってなんか共感できない悪妻キャラなんだけど、でも、ここについては深く同情する。
だってさ。
神は約束したわけですよ。
子孫たくさんできるで、って。
そうなると、一族郎党みんな、神の言葉を信じて超期待するわけですよ。
期待を一身に背負うサラ。
重たい。
適齢期の女性の多くが背負う重圧。。。
だからだろう、75歳まで妊活している(粘りすぎ!)(どこが適齢期やねん!)(というか、このあと90歳で初産するんだけど!)
・・・つらかっただろうな。
で、さすがのサラも諦めた。
不承不承、エジプトから連れてきた女奴隷のハガルをアブラハムに差し出すのである。
その複雑なニュアンスが感じられる絵が、マティアス・ストーメルの『ハガルをアブラハムに連れてくるサラ』。
サラの目。
ちょっと呆然としているというか、焦点があっていない。
もしくはある種の諦観か。
いろんな感情が呼び起こされる絵だな。
寄る年波も感じさせる。
ふたりとも、なかなかに老人だ。妙にリアル。
まぁ旧約聖書って全体に女性蔑視が甚だしいし、当時子どもが出来なかった夫婦では側女を置くのはそんなに特殊なことではなかったみたいなんだけど、でも、神の言葉を信じていただけに複雑だよね(もうちょっとだけ信じて待てば良かったんだけどね)。
このストーメル、他にも何枚もこのテーマで描いている。
よっぽどこのテーマが好きだったのかな。
その中ではこれ(↓)はわりと好き。奴隷ハガルの表情が、後の「高慢ちき」をちょっと暗示している。
画像3
これ(↓)もストーメル。
犬(忠義を表す寓意)を置いているので、ハガルのアブラハムに対する忠義を描いているのかと思う。
召使いが持っている器は子宮の寓意かな? ハガルは乳房を押さえていて、これは乳母的な暗示だそうだ。
つまり、このハガルは、「あなたに忠義を尽くして子どもを産み育てることに専念します」という意志を示している真面目な女性として描かれているのだろう。表情もわりと真面目。」
引用おしまい。
再び、僕の感想
というわけで、すべてのユダヤ人の始祖である、旧約聖書の偉人、主要人物のアブラハム。その妻サラと、女奴隷のハガル。寝室に三人いるわけ。聖書にこの故事があるから、宗教カルトクーデター政権は、この通りの制度を実施するわけだ。このサラとハガルの間の、さとなおくんが書いたような緊張感が、主人公と、司令官(侍女の持ち主)の妻の間にもある。
現代の、普通の女子大生として生きてきた、僕らとほとんど同世代の女性が、突然クーデターで、宗教原理主義のディストピアに暮らすことになる。追憶回想される、夫と娘との生活、クーデター後に起きたこと、そしてディストピアの独特な社会制度。イラクで普通に暮らしていたのに、イスラム国が台頭しその支配地域に住んでいたために、性奴隷にされたヤズィーディーの女性と言うのは、もっと暴力的に酷い扱いを受けたのだろうが、そのクーデター前後の「落差」というのは、こんな感じだったのかもしれない。
ディストピアと言うのは、単に悪夢のような社会ということではなくて、その体制に従順であれば、いちおうの生活、衣食住は保障されるが、様々な意味での自由、人間らしさが奪われている社会のことである。体制ができて長く経って、その体制のもとで生まれ育つと、世の中そういうものだと思って、疑問を持つのはごく一部の人なのだが、この主人公のように、クーデター前の、普通のアメリカの現代の生活から、急にこの体制、立場に移行すると、それを受け入れるのは難しい。とはいえ、「侍女」は、子どもを産む能力があるということで、それなりに大切に扱われるので、与えられた立場役割を受け入れて考えることを放棄してしまえば、生きてはいける。しかし、夫も娘も生死は分からず、おそらくもう二度と会うことはできないし、思想も移動もほとんどの自由が奪われている。自殺しないように、その可能性のある、あらゆるものも、遠ざけられている。
女性が、そもそも差別されてきた状態から、長い歴史、時間をかけてすこしずつ獲得していった様々な権利や自由が、一挙に根こそぎ奪われたディストピア。
だが、そのような政治的な意味だけではなく、性、恋愛、男女の駆け引き、女性同士の友情、母娘の葛藤、化粧、ファッション、食など、普遍的な女性にとっての人生の、生活の細部ひとつひとつが、極限の状況の中で、ひとつひとつその意味や価値が吟味され描写されていく。そういうところは鴻巣さんが紹介してくれた、小川洋子さんの『密やかな結晶』と共通する、女性が描くディストピア小説としての、固有の魅力がある。男性である僕が読むときに感じる面白さがある。政治的な意味でのフェミニズム小説、という側面だけではないる女性の描く女性性についての批評眼、観察眼が極めて繊細詳細なのである。
女性だけでなく、反政府勢力・活動を抑圧するために、政権が作り出す様々な制度の醜悪さ。それに慣れ、抑圧されている側なのに、いつのまにか抑圧する体制の一部に人々が組み込まれていくこと。これはオーウェルの『1984』同様に、ものすごくうまく作られ、描かれている。
ということで、続編『誓願』に進むことにします。二冊読み終わった感想は、また今度。