『異国の出来事』ウィリアム・トレヴァー(著),栩木 伸明 (翻訳) 短篇小説なのに人生全体の長さ重さが伝わるというのはどういうことなのか。名人芸の一言ではすまないよなあ。素晴らしい。
『異国の出来事』(ウィリアム・トレヴァー・コレクション)
ウィリアム トレヴァー (著), William Trevor (原名), 栩木 伸明 (翻訳)
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本の帯
ここから僕の感想
短篇の名手トレヴァーの作品から、翻訳者 栩木伸明氏が〈旅モノ〉を選んで一冊の本にしたもの。書かれた時期は1972年から2007年、著者44歳から79歳までなのだが、どれが何歳くらいのときの作品なのかは、読んでも分からない。44歳の時にはもう腕前は完成形になっており、79歳になっても衰えていないのである。
前に感想を書いた『ラスト・ストーリズ』という短篇集は、同じくトレヴァーの作者78歳から亡くなる88歳までの人生最後の10年間に書いた短篇を、同じ栩木氏が選んでまとめた本だった。
今回の本は、アイルランドやイギリスを舞台にすることが多いトレヴァー作品の中から、外国を舞台にするものだけ、なのだが、主人公の多くはアイルランドがイギリスの人、何人かアメリカ人もいる。英語話者ではある。
アイルランドの小説家の本を、ここのところ続けて、同時に読んでいるのだが(先日『喉に棲むあるひとりの幽霊』デーリン・ニグリオファの感想を書いたが、今、本書と並行して『青い野を歩く』クレア・キーガン著 を読んでいる)、これまでもアイルランドの本はいろいろ読んできたけれど、知らないことがまだまだたくさんあって、どんどん出てくる。
本書解説最後にアングロ・アイリッシュについての解説があって、なるほどなあと思う。
北アイルランドにプロテスタント(アイルランド教会)の人が多いから、あそこがイギリス側に残っていることは漠とは知っていたが、アイルランド全体に支配階級的にアイルランド人だけどプロテスタントという人たちがいて、アングロアイリッシュと呼ばれていたのか。なるほどなあ。
最近読んだ、上記どの本のどの部分に出てきたので調べたのか忘れたが、『ナルニア国物語』作者CSルイスの故郷の街、ベルファスト郊外を訪ねるシーンがあって、ああ、ルイスは北アイルランド出身で(父方がウェールズからの移住者と、また事情は複雑なようなのだが)、母方祖父はアイルランド国教会の牧師だったのだということを知る。ナルニア国物語のキリスト教的世界観は、プロテスタント的な感じがするもんな。
といろいろ脱線するが、この本、トレヴァーについて話を戻すと。
たしかに「短篇なのに長編小説みたいな読後感」という、本の帯の言う通りなのはなんでだろうな。
これは主人公一人だけではない、もう一人の重要人物、かつての友人とか夫婦・恋人とか、いやそれだけではない生徒と寄宿舎の寮母さんとか、そういうふたつの人生の重心が重なる瞬間を作り出し、描き出す。ということと関係があるよな。
ふたりの人生の重さ、どうしようもない状況、運命、それを引き受けて生きてきたこれまで、そしてこれからもそうやって生きていくのだろうという、そういうものを短篇として作り出すのだ、トレヴァーという小説家は。
「愚かさ」へのまなざし
特に本の帯にある、人間の「愚かさ」ということについて、ストレートに描写する。これがまあ、なんというか、トレヴァーの人物設定と造形の特徴として、すごいというか、おそろしいところである。
長編『フェリシアの祈り』の感想文でも書いたような気がするのだが、トレヴァーは小説の主人公に、あんまり頭のよくない、ぼんやりした、失敗ばかりしてしまう、そういう人物を据えることが、ままある。だって、そういう人、いるんだもん。そういう人も人生を生きていくわけだし、それゆえのつらさを抱え込んで生きて来たし、これからも生きていくのだし。
この本を読んでいる間に、たまたま見た岡田斗司夫のYouTube動画「【承認格差】誰からも相手にされない、全てが上手くいかない人間はどう生きればよいのか。」タイトルサムネールには「あまりにも残酷 知的格差を描いたマンガ」として、魚豊著『ようこそ!FACT』というマンガについての考察動画なんだけれど、これも、お時間あったら見てみてね。
この中で岡田斗司夫氏は、鈴木大介氏の『貧困と脳』という本の紹介をするのね。この鈴木大介さん、ベストセラーとなった『最貧困女子』を書いた人なんだけど、このベストセラーを書くために貧困女子に膨大な取材インタビューをする中で、その本にはあえて書かなかったけれど「なぜ、なんでこの最貧困女子たちはこんなにだらしないのか、約束や時間も守れないし、役所からの大事そうな通知の手紙も放置するし…」みたいなことを実は思っていたと鈴木さんは『貧困と脳』で書くのだそうだ。なんで『貧困と脳』を書いたのか。それは、この鈴木大介さん、自ら脳梗塞を発症して、高次脳機能障害になって、なってみると、ご本人もそういう時間や約束を守るとか、大事そうなお知らせ手紙を開封するとか、そういうことが全然できなくなっちゃったわけだ。なってみると、階級格差や文化資本の差みたいなことを「親ガチャ」みたいに言うのが流行ったけれど、その前に、本当に「脳の機能」、「知能格差」があるということに、高次脳機能障害になって鈴木大介さんは初めて気づくのだな。
でね、ウィリアム・トレヴァーの小説の中には、そういう、どうしてもいろんなことができない、失敗しちゃう、そういう人がときどき主人公として出てくるのだな。単に不運というだけでない、なんとなくちょっと「知能に問題がある系」の主人公が。知能や脳の働きにちょっと問題がある人についても、すごく擁護するのでも、突き放すのでもなく、だって普通にそういう人はいるし、そういう人もその人なりに一生懸命考えて決断して行動するし。そのことの観察と描き方が、もうほんとうに素晴らしいのである。
この本の中だと「三つどもえ」の主人公ドーンとキーンの夫婦。特に夫のキース。この話、なんとも切ない。
そういう二人を世話している老人というのがいる。この老人と夫婦の「三つどもえ」の関係を描く小説である。
失敗だらけの二人に仕事も与え、住所兼用の店に住まわせてもいる、新聞販売店をやっている老人(おじさん)というのは、そう聞くと親切な人だと思うかもしれない。
でもおじさんは、そういうキースとドーンの欠点をあげつらい、マウントをとる。残酷にふるまう。そのことを楽しみとして生活している。そのあたりの微妙な感じが、小説を読み進むとだんだん分かってくる。
たしかに親切でもあるのだ。ドーンとキースに、たまには旅行をしてきなさい、とお金を出して上げて、おじさんのお金で二人はヴェネチアへのツアー旅行に申し込む。しかし、なぜか旅行代理店の手違いで、飛行機はスイスについてしまう。スイスのホテルまで連れて行かれてしまう。せっかく老人がお金を出してくれたのに。
これだけ読むと、おじさん、いい人みたいだけれど、でも、こういう二人に対してマウントを取るだけではない。キーンとドーンは同じ養護施設の出身で身よりは無い。おじさんも身寄り跡継ぎがいない。おじさんは新聞販売店とそこそこの資産を持っている。おじさんは自らの死後、それをキーンとドーンに贈与相続させるのか、それとも地域の人の憩いの場ビリヤード場を維持するための基金に全額寄付してしまって、二人には残さないのか。そのことを餌に、おじさんは二人をいたぶっているのである。
このキーンとドーンの夫婦、失敗してばかりなだけでなく、容姿外見からも、人に軽く扱われやすい。ぼくもその苦しみとともに人生60年生きてきたので、身につまされる。旅行代理店のミスでヴェネチアではなくスイスについてしまった二人は苦情を言い立てようとするのだが、相手にしてもらえない。
背の低い夫と、ちまちま顔の妻。そういう二人は二人で助け合って、不運に耐え、周囲の、いろんな人から軽く扱われる屈辱に耐え、老人の親切と残酷の合わせ技に耐えながら生きてきた。
そのことが「老人に金を出してもらったのに、間違った旅行先に連れて行かれる」事態に凝縮して、短篇小説になるわけだ。
「キースとは、そういうふうにできあがった人間なのである。彼は自分をどうすることもできない。」
と書いたうえで、ドーンがそれを
「あなたの頭には銀の内張りがしてあるのよね、キーシー」
と言う。なんか、泣いてしまう。
小 説は、その旅の数日、行き先が違うことに気づいてからのほんの二三日を描くが、そこに至る夫婦の人生、これからもおじさんと暮らしていくしかないこの先の人生、夫婦の、特に妻のドーンの善良なやさしさ、まあいろんなことが心に沁みるのである。
こういう名人芸が12篇。いちいち取り上げていたらきりがないのでここら辺にしておくけれど、いろんな形で不完全でしかありえない人間、そういう不完全な人間があるときはともに生き、あるときは別れ、そしてまたときに再会する。夫婦は他人からは分からない形で、それぞれの不完全さ欠点を理解し補い合い(そのそれぞれの形を愛と呼ぶかは、まあ、あるとして)生きてきた。生きていく。
自分のこともよく分からないし、ましてや他人のことは完全には分かりようがない。
おそらく12篇の中で、共感できるもの、できないもの、刺さるもの、刺さらないものあると思う。人によって。
いくつか激痛で刺さったものが、僕にもあったけれど、どれかは内緒にしておこう。上の「三つどもえ」ではなくて。あんまり痛かったので、それの感想は書けません。