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『イエスの学校時代 』 J.M. クッツェー (著), 鴻巣 友季子 (翻訳) 前作から印象一変、劇的展開。タイトルの意味についての、僕の理解もちょいと深まってきた。

『イエスの学校時代 』 2020/4/16
J.M. Coetzee (原著), J.M. クッツェー (著), 鴻巣 友季子 (翻訳)

Amazon内容紹介
「ノビージャの街を捨て、田舎町に逃れてきたダビード、シモン、イネス、そして犬のボリバル。シモンとイネスは農園に住み込みの仕事を見つけ、ダビードとボリバルもそこに暮らす。だが、もうじき7歳になるダビードの質問攻めにシモンは辟易していた。ダビードもシモンの返答に満足せず…。ダビードは、農園のオーナーである三姉妹の勧めで、ダンスアカデミーに入学する。少年はシモンとの距離を置くために寄宿生になりたいと言い出すが…。『イエスの幼子時代』続篇。」

そう、これじゃ何のことだか、分からない。『イエスの幼子時代』のAmazon内容紹介も。


「初老の男が5歳の少年の母親を捜している。2人に血の繋がりはなく、移民船で出会ったばかりだ。彼らが向かうのは過去を捨てた人々が暮らす街。そこでは生活が保障されるものの厳しい規則に従わねばならない。男も新たな名前と経歴を得てひとりで気ままに生きるはずだったが、少年の母親を捜し、性愛の相手を求めるうちに街の闇に踏み込んでゆく―。人と人との繋がりをアイロニカルに問う、ノーベル文学賞作家の傑作長篇。」

さて、ここから、僕の感想。
 前作『イエスの幼子時代』を読んでからだいぶ経つのだが、おぼろな記憶としても、前作はずいぶんととりとめのない印象だった。クッツェー作品は『恥辱』その他、南アフリカのアパルトヘイト前後の、暴力的な現実社会を舞台にした、ひりつくようなつらさに満ちた小説群、という印象があり、それとは全然違う、時代も国もあいまいな、抽象的な小説だったのだ。

 前作で、初老の男性主人公シモン(主に作者の視点と同一化することの多い)が、移民船で迷子になっていた幼い少年ダビートを保護し、その母親を見つけようとし、見つけた(実の母なのか、本当のところは不明だったような気がする)女性イネスと、三人で疑似家族となり、ダビードが学校になじめないことから、家族三人で街を逃げ出す、という物語が前作の終わり。

 さてと、話はずれるが、前作を読んでから、本作までの間に、僕の読書体験が増えて、この続編を読む前の理解とか前提知識が増えたことを書いておくのが良いと思う。

 ひとつは、畏友、佐藤尚之くん、通称さとなおくんが、noteに連載している『聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別にまとめてみる』を愛読通読したことで、聖書についての知識が、ものすごく整理され深まったこと。旧約聖書篇は完結していて、新約聖書篇は、今、さとなおくんの事情で休止中なのだが、イエスが生まれて、育って、布教を始めた、12使徒それぞれの解説あたりまで来ている。(旧約篇から読みたい人は、上の下線部分クリックしてください。死ぬほど面白い。)

 『イエスの幼子時代』『イエスの学校時代』というタイトルから、はじめイエス・キリストの話かと思ったら、全然、現代か近未来の、どことも知れぬ国の疑似家族のだったので、『イエスの』と題されたことの意味と言うのを、前作の時はあんまり考えなかったのだけれど、さとなおくんのおかげで、そうか、これは、そういう試みなんだ、ということが、おぼろげにわかってきた。

 イエスの、人間の両親、マリアとヨセフというのは、ずいぶん年の離れた夫婦で、ヨセフは「処女なのに妊娠しちゃった」というマリアのことを「そうか、神様の子なら大切に育てよう」って、そういう人なわけだヨセフは。

 そして、実は聖書では、イエスが生まれるときの事情は、いろいろ詳しく書いてあるのだが、そのあと、30歳前後で布教はじめるまでの「幼子時代」も「学校時代」も、ほとんどなんにもエビソードが無い。唯一、ルカの福音書の中に、まだ、幼いイエスを連れてヨセフとマリアが過ぎ越しの祭りでエルサレムを訪れた時、イエスが迷子になるというエピソードがある。さとなおくんの名文を引用します。全文読みたい方は、以下の下線部、クリックして。

聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別にまとめてみる(新約聖書篇11) 〜少年イエス から。


「これが「過越(すぎこし)の日」として、いまでもイスラエル民族の習慣としてリアルに残っている。英語だと「PassOver」。
 そのお祭りである「過越祭」に参加するために、イエスが12歳のとき、両親に連れられてナザレからエルサレムまで(約150km)行ったわけだ。

 で、無事に祭りが終わって家路につくのだけど、ここでイエスがはぐれてしまう。はぐれイエス。

 マリアとヨセフは焦る。
なにしろ神の子だ。救世主である。
「あぁイエス! 何かあったらどうしたら!」
「山賊にでもさらわれたら命がない!」
でも、なんと3日も見つからない。
 
 まぁ普通の親でも死に物狂いになるけど、救世主予告を受けている子だからねえ。もう生きた心地がしなかっただろう。

 で、周辺を探し探してついにエルサレムまで戻ってしまうのだけど、神殿を通りかかったら、なんとイエスは律法学者たちを相手に議論を交わしていたのであった。
 周りの学者たちは「この年齢にして完璧な旧約聖書の知識だ」「なんて子だ!」「しかも我々を論破しよる」「とてもじゃないが叶わない」とか舌を巻いている。

 でも、そんなこと関係なく、マリアもヨセフも発狂して怒るわけ。そりゃそうだ。
 「イエス! あなた、なぜこんなところにいるの! ダメじゃないの、ちゃんとついてこないと! どれだけ心配したと思ってるの!」
 まぁ、聖母であろうが慈母であろうが発狂して怒るわい。
なにしろイエスはもう12歳なのだ。

 12歳と言えば、マリアが処女懐胎した年齢ではないか。
しかも頭がいい子であるなら、3日もいなくなったら親がどう思うか、当然わかっているはずだ。

 なのにイエスはこう言い放つんだな。
 「どうして心配なんかしたんですか? どうして探したりしたんですか? 私が父の家にいるなんて、当たり前のことじゃないですか。それがお母さん、あなたにはわからなかったんですか?」
 父の家、つまり彼は神の子だから、神の家=神殿=父の家、という理屈で、イエスは平然とそう言い放つ。
 
 この、こまっしゃくれたクソガキが!

 というか、のちにあんなに愛を語るイエスが、3日探し歩いた親にそんな口の利き方あるか?
 
・・・マリアもヨセフも怒りというより、なんかポカンとする。
というか、イエスの言葉の意味がわからなかったらしい。

 「父の家? ナザレの大工の家だよね。この子、何言ってるのかしら?・・・」

 救世主と予言はされていたけど、まぁまだ実感ないせいなのか、父の家=神殿、とは結びつかなかったのだ。

 なんかヤな感じだけど、早熟の子ってこういう才気走るところ確かにある。

 そういう意味で、「全方位的にやけによく出来た少年イエス」ではなく、「こまっしゃくれたクソガキであるイエス」のほうがよりリアリティはあるなぁ、とは思った。

 そういう意味では、この文章を書いたルカさん、グッジョブ。

聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別にまとめてみる(新約聖書篇11) 〜少年イエス

引用ここまで。面白いよね。さとなおくんの名文。でね、この『イエスの学校時代』って、全体が、まさに、こういう、早熟の憎たらしいクソガキ、ダビードを持て余して苦慮する初老のお父さん(といっても血のつながりはない育ての親)シモンの苦悩を描く小説なわけ。なるほど、これは本当に『イエスの学校時代』を、現代らしき謎の国、人物設定に移し替えて描くという基本構図なのが、よくわかる。小説中、この親子は、国勢調査から逃れて逃げ回るのだが、これも、聖書の中の、イエス親子のおかれた状況と重なっているのだな。

 という、さとなおくんのおかげで、いろいろ状況と設定、人物関係の意味がよくわかってきた、というのが、前作から今作の間での、僕の方の知識の増加、その①。

 では、その②は何かというと、翻訳家、鴻巣友季子さんについて、前作を読んだときは、翻訳家の方のことは全く意識せずに読んでいたのだが、今回は「ああ、鴻巣さんの翻訳なんだ」と思いながら、読んだこと。

 僕の直前の読書noteが、『鴻巣友季子さんが紹介推薦していたディストピア小説三作を一気に読む』シリーズだった。AERAで鴻巣さん紹介記事を読んでから、この人の翻訳は、なんかいいなあ、と意識するようになって気が付いた。初めて読んだクッツェーの代表作『恥辱』も、鴻巣さんの翻訳だったのである。

 で、本作、末尾に、鴻巣さんの『訳者あとがき』がついていて、ちょっと引用すると


〈 本書の前作『イエスの幼子時代』のシモンは、本人は四十代に見られたいようだが、実年齢は六十代のようである。終末後の世界とおぼしきゆるやかで不気味なディストピアで暮らす彼は〉

本書「訳者あとがき」 

 と書いていて、なるほど、この連作は、ディストピア小説のひとつとして、鴻巣さんは捉えていたりするのだ、と最近の読書体験とつながってきたりする。前作は、「どこの国なんだ?いつの時代なんだ?」というのが良く分からなかったのが、なるほど、これは一種のディストピアを舞台にしているのか、と理解すると、腑に落ちる。

 という、理解前提知識が増えた、というのも、あくまでもちろん感想ではなく、前置きで、ここからが、感想、本番。

 感想と言えば、鴻巣さんが、そのあとがきの中で〈言うなれば、疾走するエンターテイメント不条理小説・巻を措く能わずのおもしろさである。〉と書いているが、ほんとにそう。

 本作、はじまりは、前作同様の、たんたんとした、わりと平穏な出だし。農園の季節労働者として落ち着いた家族の暮らしを描いていく。

 この中で、池のカモをめぐるエピソードがあるのだが,これも、実は「トーマスの福音書」という、聖書には入っていない、外伝扱いの福音書にある、『イエスが安息日に泥遊びをして泥でカモを作っていたのを、安息日に、そんなことをしたらいかん、と怒ったところ、カモが本物になって飛び去った」というエピソードと、何かつながりがあるのかも、とも思う。

 農閑期になり、そのまま農園に住み続けているが、ダビードは、学校にもいかず、自由気ままに暮らし続ける。早熟だがなんか、手に負えないダビードをどう教育しよう、ということで、はじめは家庭教師をつけてみたが、ダメ。公立学校に通わせるのは、住民登録していない(逃げている)からできない。ので、農園の持ち主の三姉妹おばあさんたちの援助で、街にあるダンスアカデミーに通わせてみる。

 ここから、急激に、物語が動き出す。ダンスと音楽と宇宙論的哲学(天上の音楽)を教える学校なのだな。美貌の女性ダンサー先生、その夫の音楽家が学長。女性ダンサー先生を崇拝するちょいとうさんくさい門番。ダビードは、親には「あなたたちは僕のことは分からない。愛してもいない」と言いはなつ一方、アカデミーの先生夫妻や門番には「この人たちは僕のことを理解してくれる」と、どんどんなついていく。(このへん、ルカの福音書のエピソードに似ているでしょう。)

 そのことに悩むシモン(お父さん)。一方、イネス(おかあさん)は子育てから解放されて、仕事に生きがいをみつけていく。

 ダビードが寄宿舎にはいると、子どもがいなければ、夫婦のように暮らしていく関係性はシモンとイネスの間にはなくなり、二人は別居する。なんと、現代的な夫婦子育て問題。そういう家族問題小説なのかあ、と読んでいると、予想外の事件が起きて。すごいことになります。

 いやあもう、そこからの犯罪心理小説。そこにダビードのような面倒くさい子供が絡む。とにかく「こういうジャンルの小説だから、こういうモードで読めばよい」というのが通用しない、「いったいどういう気持ちで読んだらいいのだよ」と、読み手の気持ちと頭を揺さぶりまくる小説なわけです。

 前作の「なんか茫洋とした小説だなあ」から、本当に印象激変。面白い。劇的小説でした。しかし、明らかに、これで終わり、という完結した感じは無い。

 と思ったら、鴻巣さんあとがきに〈本作の後にThe Death of Jesus『イエスの死』がすでに書かれている〉そうです。え、ダビード、死んじゃうの?鴻巣さん、早く訳してください。

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