見出し画像

『蜜のように甘く 』 イーディス・パールマン (著), 古屋 美登里 (訳) すべての年齢の女性の中に、人生の複雑な体験を経てなお、恋愛や性への少女のような静かで熱い何かが息を潜めて確かに生きている。そのことを美しく尊いものと思える短編集。

『蜜のように甘く 』 2020/5/26
イーディス・パールマン (著), 古屋 美登里 (翻訳)

Amazon内容紹介

「沈黙を抱える者たちの視線が交差し、気高い光を放つ。
胸に刻まれたその残像が、今も消えない。 ——小川洋子さん推薦!
戦争で夫を亡くし、足のケアサロンを営むペイジ。
斜向かいに住む大学教師ボビーの密かな楽しみは、ペイジの生活の一部始終を観察することだった。ある日ボビーは、意を決し初めて店を訪れる。
足を洗ってもらっているあいだに、ひとり語りを始め、忘れ得ぬ事故のことを打ち明けるボビー。
悲惨な体験を通して、孤独な二人の心は結びつくのだが……(「初心」)。
79歳の作家が贈る、全10篇の濃密な小説世界。
「世界最高の短編作家」(ロンドン・タイムス)
「現存する最高のアメリカ作家による、最高傑作集」(ボストン・グローブ紙)
——なんとまあ大袈裟な、と思う方は、是非とも本書を読んで確認していただきたい(古屋美登里)」

ここから僕の感想。

 話を、この本の帯で推薦文を書いている小川洋子さんのことから始めようと思う。

 小川洋子さんは、1962年3月30日生まれ、63年2月生まれの僕より1学年上である。僕の妻は62年4月生まれだから、小川洋子さんと学年は違うけれど、妻よりひと月違いだ。「著者近影」が、いつも、どこか少女のような印象を与えることは、デビュー以来、変わらない。少女のような印象のままま、次の誕生日か来ると、60歳だ。

 少女のような印象は、その小説の文章、世界観でさらにその印象を強くする。静かで、知的で、すこしおずおずとした他者や外界との距離感で。性的なことも小説世界には描かれるが、その描き方も、息をひそめたような、しんとした、熱は内側に秘められたような。

 女性が、成熟した人生を生きて、老いを迎え、なお、少女のようでありうることと、その年齢でも、性的に、静かな熱い熱を保ち続けていることと。

『蜜のように甘く』の作者、イ―ディス・パールマンは、1936年生まれ、私の母と同い年だ、今年の誕生日を迎えると85歳。70歳を過ぎてから広く認められ、この本が出版された2015年、79歳だ。

 短編集なので、子供時代の思い出を描いたもの、若い大学生を主人公にしたものなども含まれる。が、70歳を過ぎた女性を主人公としたものまで、高齢の女性を主人公にしたものが多い。あらゆる年齢幅の女性の、人生のそれまでが凝縮したような、静かで深く強い意志や思いが描かれる。(短編だから短い瞬間のみを描いているかと言うと、それだけではない、短編でありながら、長い人生の時が上手に織り込まれているものも多い。)

 そして、何篇かは恋愛や性とは関係のないものもあるが、多くの小説で、どの年齢の女性も、恋愛や、性について、その年齢の、成熟した・あるいは老成した女性の中に、おずおずとしつつ、熱を秘めた少女がいるようだ。過去の記憶と、新しい出会いと、現実の生活と、不確かな未来の間で、単に、異性を思うだけでなく、異性から、熱く思われる。年下の男性からも、性的な情熱も含め、思われたりもする。

 もうすぐ60歳の、私や、妻や、(もしかして、小川洋子さんも)から見て、これから先の人生は、積み重なった思い出や、衰えていく体や、失われていく家族や友人、というそういうものだけ構成されていくように思いがちだ。喜びも、淡々とした、大きな起伏はない、そういう人生が進んでいく予感の中で生きている。

 が、この本の中では、そうした老いの人生を構成する避けようのない様々の中に、少女のような恋や性への何かが、単なる「思い出」としてだけでなく、たしかに熱をもったものとして、存在する。それとどう向き合うかの中に、老いや人生の芯がある。
 
 そして(ここ大事)、老いの中での、性や恋が、生々しかったりや醜くかったりせずに、美しさの中で成立している。そうあるような生き方、選択をすること。そのように小説として描くこと。その両方が、この短編集の中にある。

 小川洋子さんが、この本の推薦文を書いていることは、すごく、納得感がある。

 私の友人の多くは、私と同年代か、それ以上であると思うので、そうであるならば、こういう79歳もありうるのかなあ、そんなことを思いながら、読むのもいいかもと思いました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集