『ふたつの人生』 ウィリアム・トレヴァー(著),栩木伸明 (訳) 中篇ふたつを一冊の本にまとめたもの。最高の短篇小説家による中篇は、果たして最高か?いやあんまり面白かったので感想文書いたら盛大ネタバレになってしまいました。
ふたつの人生 (ウィリアム・トレヴァー・コレクション) 単行本 – 2017/10/25
ウィリアム・トレヴァー (著), 栩木伸明 (翻訳)
Amazon内容紹介
本の帯 裏から ウィリアム・トレヴァー・コレクション(全五巻)の紹介文
ここから僕の感想
というわけで、「世界最高の短篇作家の、その中篇小説」って、どうよ。この前読んだ短篇集『ラスト・ストーリーズ』はほんとによかったから。
この本に収められたふたつの中篇、印象・性格が全然違う二篇でした。
先に読んだ短篇集で「いいなあ」と思った著者の特徴がそのまま中篇になっているのがひとつめの「ツルゲーネフを読む声」。翻訳者・栩木さんの解説によると、こちらの方は1991年ブッカー賞の最終候補になったそうで、そりゃそうだ、正統派の、静かで味わい深い小説でした。
年齢の離れた商店主と結婚した主人公メアリー・ルイーズ。あまり豊かでない農家の次女で、田舎町の服飾店の店主に嫁ぐ。意地悪な二人の兄嫁が同居しているし、新婚旅行から夜の生活はなく、結婚前は真面目に思えた夫は酒におぼれていく。そんな不幸な結婚生活の中で、小学生時代に淡い初恋、恋心を抱いていた体の弱い従兄と再会して、休みのたびに実家に返るふりをして彼の家を訪ねる。
メアリー・ルイーズは体の弱い従兄との短い美しい思い出の中に生きるようになり、やがて正気を失い、長く療養施設で生きることになる。表面的に見れば、ひどく不幸でつらい長い人生を生きるメアリー・ルイーズとその家族の物語。数十年にわたる時間を、心理の細かなひだまで描いていく。
話はちょいと横道にそれるが、私の妻は、子どもの頃から読書家で、小説をとても深く楽しむ能力はあるけれど、お医者さんをしていて忙しく、本を読むにも医学書を読むことに時間を取られるから、小説は数か月に一冊ペースでしか読めない。ので、私は、「これは妻は読まないかなあ」という小説について、妻に「こんな話だったよ」とあらすじと感想をときどき語って聞かせるのだが、この小説について「こんな可哀そうな話で」と僕が話すと、「可哀想というけれど、それはその従兄も主人公も、とても幸せな人生ということだよね。」「どんなに短くても、美しく幸福な思い出がひとつあれば、人間は生きていける、その人の思いの中では幸せでいられるというお話だよね」という言葉を返してくれた。妻の言う通り、そういう小説でありました。
実際に、小説の記述の八割は、暗く救いのない不幸な結婚生活についてなのだけれど、残り一割の美しい瞬間と、あとの一割は、その美しい思い出を反芻して生きている主人公を描いているのである。基調となる部分が救いのない色褪せた暗いものだけに、その短い思い出の美しさと、それを頼りに生きる長い人生のあり方、その切実さが心に沁みる、そういう小説でした。
という静かな静かな一篇目に対して、二篇目は全然違う。なんというか、怪作である。主人公生い立ち半生は波乱万丈すぎる設定で、さらに大きな事件に巻き込まれ、そしてクライマックスの部分はどういう気持ちで読んだらいいか分からなくなる展開である。
この二作目、ほんとはそうでもないのだが、ちょいとサスペンス的要素もあるが、感想を書こうとするとネタバレしてしまう。ネタバレありでこれから感想を書きます。ネタバレ嫌な人は、ここでnoteは読むのをやめて、以下Amazonリンクから、本を買って、小説を読みましょう。
では、二作目「ウンブリアのわたしの家」ネタバレ大あり感想スタートしちゃいます。
「ウンブリアのわたしの家」こちらは、解説・栩木氏情報によると「リチャード・ロンクレイ監督によりテレビ映画化された。(中略)映画は好評を博してエミー賞とゴールデン・グローブ賞の各部門にノミネートされ、(中略)主演女優賞を受賞した。」
舞台はイタリアのウンブリア州の小さなホテル。その女主人ミセス・デラハンティは、波乱万丈の不幸な生い立ち前半生の持ち主。イギリスのサーカス芸人(バイクで筒をぐるぐる走る父とそれに一緒に乗る母)の娘として生まれながら、養父母に売られ、そこで性的虐待を義父から受けて16歳で逃げ出すが、悪い男にひっかかってアメリカを連れていかれそこでもひどい目に遭い、そこからアフリカの僻地にまで連れていかれた後で捨てられ、そのアフリカ僻地のカフェで働き(だたの女給ではないかんじ)金をかなり貯めて、そこで一緒に働いていた怪しいちょいと若い男とともにイタリアの小さな田舎の屋敷を買ってホテルを始めた。そこでロマンス小説を書くようになり、ホテルの女主人として今は余裕のある暮らしをしている。
もうここまでの半生だけでも回想シーンで描くだけで、世界中をロケ撮影しないといけない。どこでだか忘れたが、高級客船で働いていたこともあったな。
この半生記だけでもドラマチックなのに、やっと落ち着いて暮らしているかと思ったイタリアで、お金持ち奥様として年数回、ミラノに服などをお買い物に出かける列車で、爆破テロに巻き込まれる。1987年のこと。もうドラマチックすぎる。映像化するなら、今なら大CGだろうなあ、テレビドラマ化は2003年なら、もうCGだな。
そして、同じ車輛に乗り合わせ生き残った、アメリカ人の女の子、ドイツ人の青年、イギリス人の老人・元将軍の三人を、心の傷が癒えるまで、自分のホテルに招いて暮らすことにする。皆、家族や恋人をテロで亡くして、孤独である。
そのひと夏の物語。このテロ事件があったのが、主人公ミセス・デラハンテが56歳のとき、という設定である。
それから大事なことなので書いておくと、彼女はもともと太りやすい体質だが、その魅力で若い時から今に至るまで、言い寄る男はたくさんいた。56歳当時も、自己申告だが、女性としての魅力は失っていない。性的に不幸な体験を若い時からたくさんしたのも、太り気味だが性的な魅力はある、いわゆる「男好きがする」肉体の持ち主、そういう56歳、という設定である。
その上で現在は、ロマンス小説、おそらくはハーレクインシリーズみたいなロマンス小説の、そこそこ売れっ子の小説家である、というのが主人公、ミセス・デラハンティである。
解説から引用すると
南アのノーベル賞作家J.M.クッツェーも男性だが、「エリザベル・コステロ」という架空の女性作家を主人公にした小説群を書いている。ウィリアム・トレヴァーも、この「ミセス・デラハンティ」という女性ロマンス小説作家という作中人物を視点人物として創造し、語り手として動かすことで、何重にも「小説を書くこと」「小説家の想像力の抑えがたい働き」を小説内に持ち込む。小説家として分かっていることと、女性であるという分からなさ、その両面から視点人物を造形する、というのは、クッツェーにしてもトレヴァーにしても、興味ある、やってみたくなる視点人物のあり方なのだろうと思う。
このミセス・デラハンティ、初めからいささかよく分からない主人公なのだが、小説後半に至って、想像力だけでなく行動までもが大暴走を始める。
事故の衝撃で、記憶障害やフラッシュバックなど心に深い傷を追っているアメリカ人の幼い少女エイミー。アメリカに住むその叔父、ミスター・リバースミスという人物が、5月の事故から2カ月ほどたって、回復したエイミーを引き取りにホテルにやってくる。しかし、二か月の間に、主人公とイギリスの老将軍とドイツ青年は、エイミーの回復を見守ることで、自らの心の傷からも回復しつつある、そういう、被害者同士が相互に依存しあうような、危ういバランスの、しかし深い心理的つながりを四人は作り上げてしまっている。
なので、主人公ミセス・デラハンティはミスター・リバーススミスに、エイミーを渡したくないのである。
しかもミスター・リバースミス氏は、その妹、つまりエイミーの母とひどい喧嘩をしていたためエイミーとは全く面識がないのである。そんな人物にエイミーを渡したくないとミセス・デラハンティは思う。
また。ミセス・デラハンティは、こうしたすべての人たち、他の被害者についてもミスター・リバースミスについても、それぞれについて、話を聞きだしたり、電話や会話を盗み聞いたり、手帳や荷物を(ホテルの女主人特権を活かして)、勝手に見たり読んだりしては、それぞれの人物像や過去や家族について想像をめぐらす。というか、小説家としての想像力が動き出してしまいどんどんとそれぞれの人生のストーリーを作り出してしまう。
これはミセス・デラハンティの想像に過ぎないのだが、彼女は自分の想像力・推理力・洞察力に絶対的な自信を持っていて、想像したこと、夢に見たこと、そういうことを事実だと思っていってしまう。想像したことがすぐに彼女の中では間違いない事実として確信されていくのである。
アメリカ人エイミーの叔父ミスター・リバースミスはアメリカ東部の大学で「木の皮に住むアリ」の研究をしている大学教授で、いかにも理科系研究者として現実的な頭の人なので、こうしたミセス・デラハンティの妄想には全くついていけないし、エイミーを渡すまいとする攻撃に激しく反発する。
「攻撃」と言ったけれど、ミセス・デラハンティ、波乱万丈の半生から得たいくつかの攻撃の合わせ技を持っているのである。
まず、カフェをやっていたから、とにかく、酒をやたら飲ませようとするのである。酒を飲んで打ち解けようとする。というか男は酒を飲むと打ち解けると思っているみたいなのである。ミスター・リバースミスは一生懸命拒絶する。
次に、様々性的経験を積んできたミセス・デラハンティ、56歳であるが豊満な肉体、いまだ女性としての魅力はある、という自己認識なので、散歩中にミスターリバースミス氏の腕をとっては自分の胸に押しつけて見たり、ついには夜、寝室に忍び込んだりして寝技懐柔作戦に出る。もちろんミスターリバースミス氏は、彼女より若い、おそらくは40代半ばだろうし、妻もいるし、そういう攻撃もごめん被る感じで拒絶する。
その上で、ミセス・デラハンティの、根拠薄弱な創造想像世界での「あなたの奥さんはこういう人」「あなたは妹さん(エイミーの事故でなくなった母)とこんな喧嘩をした」それぞれあなたは、彼女は星座は何座だから、こんな人で相性が悪いとかなんとか、もう、ほとんど彼女の妄想想像の暴走から生まれるストーリーから「だからエイミーを置いていきなさい」と迫られるのである。
解説では栩木氏は「はたしてミセス・デラハンティが語る物語は真実なのだろうか?」と書いているけれど、いやあ、素直に読む限り、彼女が超能力者でない限り、彼女の小説家的想像力の暴走であるとしか読めない。
語り手はミセス・デラハンティなので、彼女は自信満々なので、ミスター・リバースミス氏がわからんちんのアリの研究にしか興味のない、学者としての出世しか考えていない堅物冷血漢で、その妻もその同類で、私のやろうとしていること(エイミーを私たちの手元に残す)は正しい、という書かれ方をしているのだが。
しかし、お酒無理強いと56歳豊満ボディ色仕掛けと星座占いと夢の話と小説家の妄想力の合わせ技で攻撃され続けるミスター・リバースミス氏の立場に立ってこの話を読むと、これはほとんどホラー小説のような恐ろしさはある。
というわけで、面白いのだけれど、かなりハチャメチャな小説である。たしかに、この前読んだ『ラスト・ストーリーズ』にも、よく考えるとぶっ壊れた感じの登場人物がたくさんいた。短篇だから、その異常さを執拗に詳しく書くというより、小さなエピソードに象徴させたり、ラストで唐突に示してギョッとさせたり、そういう形で示していただけで、人物としての異常さは、よく考えるとさまざまな人物で描かれていた。
しかし、短篇で読むのと、この中篇の長さで、丹念に、繰り返し描かれた場合だと、読んでの印象が大違いである。この小説の場合、語り手視点人物が、かなり異常なのである。もう「信頼できない語り手」全開である。
そう、この「ウンブリアのわたしの家」は、いかにもテレビドラマにしたくなるが、しかし、ブッカー賞の候補にはならないだろうなあ、という、かなり異形の小説だったのである。
さて、この「ウィリアム・トレヴァー・コレクション」、既刊のあと二冊、『恋と夏』(最新長編)、『異国の出来事』(こちらは得意の短篇集)、も購入済なので、続けて読んでみようと思います。