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自ら「つくる」こと、たとえばバルセロナを旅するように

大人には単なる帽子にしか見えない絵も、子供にはゾウを呑み込んだウワバミに見える──サン=テグジュペリが『星の王子さま』の冒頭で描いた逸話は、わたしたちひとり一人のなかにいるはずの、眠れる「モーツァルト」(同『人間の土地』)の存在を思い出させてくれるものです。いやまたは、思ったよりモーツァルトの眠りは深い、と気づかされるものでしょうか。

Antoine de Saint-Exupéry Le Petit Prince,  (French Edition) Kindle Edition, Librofilio (March 8, 2023)

では、いままで創造性を封印していた大人たちが、自らの見えない足かせを解き、ものをつくり始めるとき、なにが起こるのでしょうか。彼ら彼女らは、そこにどのような風景を見ているのでしょうか。

(前提となる記事はこちらをご覧ください)

つくるはいかにはじまるか

この連続講座は、"「つくる」と「つくらない」のあわい〜非表現者の表現手引き" という題ですから、自らは「つくれない」と思っている人、つくりたいけれども苦手意識があるという人に向けられています。だから「さあ、いますぐつくってみよう」とはならず、まず調査をしたり、なにかを模倣したりするところから始まり、世にあるものを眺め、好きなものを集めることをします。これらの行為の延長上に、自身の手になるものを添える、という流れです。ただ、いまはプロセスの紹介は省き、昨シーズンの第四回目=最終発表の模様を簡単に紹介します。

実際に生まれたもの

これまで自らは表現とは遠いと思っていた人たちによる、多様なアウトプットが、さまざまに登場しました。

ある人は詩を書き、自ら紙を選び製本しました。ある人はウェブ上のサウンドインスタレーションを、自らの声も交えて吹き込みました。別の人はとあるアニメーションのなかに登場する架空の(外観しかわからない)建物に目をつけ、その内部を想像して図面を引きました。土偶を造形し焼いた人、iPhoneケースを製作した人、俳句を詠む人。レシピ集だけど、レシピよりもその品をつくった日の家族とのエピソードの方が長く書いてあるもの、などなど、どれも独特の視点がある。全部ご紹介できないないのですが、それぞれ固有の素敵さがありました。素晴らしかったです。

すぐにはわからなかったふたつの作品

なかでもぼくの既成概念を壊してくれた印象的な作品がふたつあります。ひとつは、ある参加者がメンターとの1on1を通してまとめた、自己分析のマインドマップ。もうひとつは、六年間付き合い別れた恋人とのLINE画面のスクリーンショットでした。

それらを見た当日のぼくの第一印象は、申し訳ないことに「おや、忙しくて課題制作の時間がなかったのかな」といったものでした。当時のその瞬間、ぼくの目には、作品とは映らなかった。

でも、最終発表を終えた懇親会の席で「ああいった作品が生まれたこと、本当にすごい場ですね」と熱く語る他の参加者の声を聴いて、え? そうなの?と考え始め、少しずつ解釈が進みました。

『「つくる」と「つくらない」のあわい ──非表現者たちによるはじめての展覧会 図録──』p57より

自己分析のマインドマップ

自己分析のマインドマップには、その人の特性や強みだけでなく、過去のトラウマやコンプレックスまでも赤裸々に書いてある。30人程度の閉じた集いであるとはいえ、これを他者の目に触れさせるのには勇気が要ったことと思います。彼は人生のなかで、「弱み」といわれるような部分も含め、自分自身をつくってきた。また、今回自身が所属するこのコミュニティを、弱みも含めて分かち合いたいと思える仲間をもつくってきた。これらもまた創作だと捉えられるのではないか──。そう気づくには、視点の転換が必要でした。

だとすれば、ぼくのほうが、いわゆるデザインやアートの旧来的な作品観に囚われていたのだと、足かせにとらわれていたのだと気づかされます。作品とは、彫刻やプロダクトやコラージュやウェブなど、名前のついた媒体・形態を取らなければいけないはずだ、という無意識的で硬直的な作品観です。誰かが何かを生み出すとき、本来はあらゆる形態をとっていいはず。あたりまえのはずですが、それを信じられていなかった。

LINEのチャット画面

もうひとつのLINEのチャット画面について。彼が6年間付き合ったのちに別れた恋人との対話。そこに映っているのは、二人にしかわからない符牒のような挨拶の合言葉でした。二人のあいだでだけ意味を持つ甘美な響き、さえずりを、何年か交わしてきた、その蓄積と思い出をもって作品と捉えた。悲しみと自己開示の象徴としての表現を、彼は仲間の眼前に投じた。この発想も、やはり僕の凝り固まった創作観をほぐすものでした。

『「つくる」と「つくらない」のあわい ──非表現者たちによるはじめての展覧会 図録──』p73より

なにかがより作品らしく、なにかは作品らしくないという早まった判断を保留して、いやこれもおもしろいのかも、と感じ取るには、自身の偏見に意識的である必要があります。

アートにおける例

なお、このようなテーマに接続するアート作品は過去にさまざまありそうです。たとえばソフィ・カルの《限局性激痛》は、まさに恋人との別れの悲痛さと向き合うものでした。一見他者にはどうでもいい、至極個人的な経験をもとに創作をスタートさせる、そこから他者の痛みという外部へも接続する。

またかつてマルセル・デュシャンは絵画の一部をペンキ屋に描かせたり、既製品をレディ・メイドとして作品化したりしました。自らが手を動かさずしても、なにかが作品たりうることを示した。マインドマップやLINE画面そのものは自分で描いたビジュアルではないため、これと通じる側面があります。

またトム・フリードマンは《1000時間見つめる》と題した作品を発表しました。作家が1,000時間その作品(紙)を見つめたとされるものです。費やした時間や労力が、制作物に見える形で反映「されない」ことを提示しています。作品を見るだけでは、技術の巧拙や品質がわからない。こういった取り組みも意識の片隅にあれば、あるいはマインドマップやLINEの画面も、つまり一見つくっていない、「つくらない」行為にみえるそれらも、作品たりうるのかもしれない。「つくる」ことなのかもしれない。

もちろん、これらの事例はすべて、先行して世に投じられ、一定の評価を得たものです。プレゼンテーションも洗練されていて、アートのプロフェッショナルの手になる仕事です。それに比して、今回の参加者によるふたつの作品は、表現としての強度を持つのか。持たないのかもしれません。

つくらない理由、つくる理由

ただ、(ぼく自身が複数の先行事例を引いておいてなんなのですが)「非表現者のための表現手引き」としてのこの場では、他者との比較や、質や技術の高低はそこまで大きな意味を持ちません。

まず技術の巧拙について。そもそも世界には、つくることが自分よりも上手な人が、ごまんといます。目に入りやすい近くの人や、メディアに取り上げられるような著名な人、他に名前も知らない人も含めて。でも、それで行動を控えていたら、誰もなにもできなくなってしまう。それらの「上手い人」も、かつては未経験者からスタートしたのでした。「他の人のほうが上手だから」は、なにかをやらない理由にはなり得ません。ぼくたちはときに、それを忘れて、遠慮してしまう。

個人的な体験、旅に出るように

そもそもつくることは、あくまで個人的な体験であるはずで、それが唯一大事なはずです。いままで自身を作り手と思えていなかった人が、見えない足かせを自覚し、それを解く術に触れること。またはそれと付き合っていく術を知ること。「個人的な体験である」とは、ただただ、自分がやってみるということです。

たとえばバルセロナに旅したいと思うとき、「他の誰かが先に行っているから行かない」とか、「他の誰かの方が旅が上手だから行かない」とはなりません。他者に先を越されていても、他者と旅を比べてみても、それは出発しない理由にはならない。行きたければ行けばいい。他の誰かでなく、自らが体験するために。その景色に触れたいから、風の匂いをかいで、食べ物や街角の往来を目の当たりにして、迷子になって困ったなあとか言って買い食いしたいから、出かける。誰かに先を越されても、似ていてもいい。ただ、出かければいい。そういう風につくればいい。

ということを改めて言語化する機会を得たように思います。"「つくる」と「つくらない」のあわい"を学んだのは、参加者よりもぼくの方だったようです。

***おわり***

(といった話は、実はラジオでも話したのでした。よければこちらも)

そしてもし興味を持った方は以下をご覧ください(申し込んで頂ける場合は、期限が6月25日までです)。

***以下長いおまけ***

さて第一シーズンは2023年の3月に最終回を終えました。執筆時点(同年6月)で3ヶ月が経ったことになります。驚いたは、当時の参加者のみなさんが、6月現在いまだに連絡を取り合い、自主的に集まって勉強会をしていること。ぼくも足を運びました。

みんな、この場を楽しみTシャツをつくったり、山椒の食べ物をつくったり、リトグラフで自らゲラ版刷りしたり、俳句を詠んだり。もうとめられない(いや、とめないんだけど)!

さらに、全4回のワークショップにあたって、参加者が取り組んだ制作物が、1冊の本としてまとまっていました(上記記事内の画像の出典です)。これは公式に主催者が作ったものでなく、あくまで参加者のみなさんが自主的に企画し編集し執筆し印刷し、まとめ上げたものです。すごい!(なお表紙はぼくのクロッキー、ピアノを弾く永田ジョージさんの右手です。下手であっても、生き延びるためでなく、生きるために描く、というものの象徴としてコントリビュートしました。)

この会は、同窓会ではなくキックオフと呼ばれていました。講義の終了で関係を終えずに、互いに刺激を与え続けることを約束する会。なんたる意欲!

以下に参加者の方々のnoteへのリンクを貼っておきます。他にもあったら教えてください!


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渡邉康太郎 / Takram @『コンテクストデザイン』青山ブックセンターにて発売中
記事執筆は、周囲の人との対話に支えられています。いまの世の中のあたりまえに対する小さな違和感を、なかったことにせずに、少しずつ言葉にしながら語り合うなかで、考えがおぼろげな像を結ぶ。皆社会を誤読し行動に移す仲間です。ありがとうございます。