「つくる」はどこからはじまるか──足かせ、模倣、つくらないこと
誰に乞われずともものをつくる人もいれば、表現に憧れや苦手意識を持ってその一歩を踏み出せない人もいる。この違いは、どこからくるのでしょうか。
自らを「表現者からは遠い」とみなしている人とともに、表現について考えて、手を動かす。 2023年3月、「つくるとつくらないのあわい──非表現者のための表現ガイド」と銘打った社会人向けの連続講義・ワークショップの最初のシーズンを終えました。
「非表現者のための表現ガイド」というテーマは、実は私自身に向けたものでもありました。わたしはデザイナーです。日々仕事をして、大学でデザインを教えてもいます。それでも、Takramというデザインのチームの優秀な仲間たちに囲まれていると、「あえてぼくが手を動かすこともないのでは」、「他の人の方が上手にやってのけるのでは」、と引け目を感じてしまうことがあります。デザイナーなのに! よく考えるとおかしな話ですが、でも実際にそう思ってしまうことがある。だとすると、普段からものづくりに携わっていない人は、輪をかけて……?
本来は、誰だって表現をしていいはず、つくっていていいはずです。小さいころは誰しもがクレヨンの肖像画家で、粘土の彫刻家で、親の心を揺さぶる詩人だった。でも年齢を重ねるに連れて、表現は一部の特別な人の特権であるかのように感じてしまう。少なくとも、何かが表現を阻んでしまっている。このように悩んでいる人は、少なくないようです。
この状況とどう向き合うか。自身が無意識に身に付けている、見えない足かせをいかに解き放つか。講義とワークショップを通して、参加者のみなさんと考えるセミナーでした。
前半のテーマは、模倣にまっすぐ向き合うことです。
このセミナーでは、「創作とは、模倣の失敗である」と捉えます。少し意外に、またはショッキングに響くでしょうか。創作とはゼロからなにかを生み出す神聖なものであって、模倣とは違うはずだ、と。
たしかに、大人の社会ではふつう、模倣は批判の対象です。コピーは良くないし権利の侵害だ、オリジナリティが重要だ、と。むしろ前後の言葉を入れ替えて「模倣とは創作の失敗である」とするならば、多くの人の直感に沿うのかもしれません。創作しようと思ったけれど、模倣に終わってしまった、というように。でも、そうではないとわたしは考えます。
模倣はしばしば批判されますが、本来はあらゆる表現や創作の根底をなすものです。誰しもが、意識的にせよ無意識的にせよ、過去の蓄積に触れ、巨人の肩にのってものをつくります。
そもそも、模倣は人の自然な営みの一部です。シェイクスピアも先行する創作に依って劇を書きました(これには創作論以外に政治的な理由がありますが)。絵画の基本のひとつには模写があります。いや、そもそも赤ん坊は親のいう言葉を真似ながら言語を身につけます。またアスリートは先達やコーチを、科学者は先行研究をなぞる。さらにいえばそもそも生命はDNAのコピーであり、コピーミスです。模倣は、生命の営みである、とさえいるのではないでしょうか。
批判されるべきは、模倣そのものではなく、それを隠蔽することです。では、なぜ「創作とは、模倣の失敗である」となるのか。
この先の議論に興味がある方は、講座本編にてぜひ。この講座は、2023年の7月から、第二回目を開講します。また、予告編的なトークイベントもあります。6月16日の無料のランチセミナーです)。
※追記です。6月16日のランチセミナーの記録動画が以下からご覧いただけます。
模倣について考える第一回のセッションの後の課題は、「なぞる」こと。自分の好きな作品を、正面から模倣します。イラストを模写したり、短歌やソースコードを写経したり、漫画や図面をトレースしたり、ギターリフをコピーしたり。なんでもいい。そこからの学びをメモする。ここから始めます。
さて、第一シーズンの本セミナーを終えて、より多くを学んだのは、どうやら参加者よりも僕の方だったようです。続きを書きます。また近日中に。