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【毒親育ち】水玉模様のジャンパースカート、の話。【#家族について語ろう】

ジャンパースカートが嫌いだ。そして大きな水玉模様も嫌いだ。
これは純粋に超個人的な恨みが原因なので、他人が着ている分には全く何の問題もない。だが、私は着たくないし、買わない。多分死ぬまで買わないと思う。

で、何があったかといえば、ある日突然ジャンパースカートが人格を獲得して金を騙し取られたとかではなく、単にジャンパースカートを起因として毒母と揉めたからである。母に叱られた多種多様な出来事の中で、ジャンパースカートの一件については本当に全く、今も許せていない。他にも細かいことは色々あったはずだが、ジャンパースカートの件は強烈に印象が強く、きっと一生許せない気がする。
とはいえ、恨みを抱いて生き続けるのも不毛だし、かといって他人に説明するには色々と前提がややこしいので、ここで吐き出させて欲しい。


確か小学校2年生か3年生か、そこらの頃だったと思う。
母は日々、金がない金がないと言いながらも、毎月父の給料日には今のイオンモールのような所に行って、何かしら自分や私の服を買うのを恒例にしていた。
当然私の好みなど一切反映されない、母の買いたい服を買うだけの話である。いくら自分の服を買ってもらったとしても、恩を着せられるばかりで何一つ嬉しくないし、後々その服を着せられて学校に行かされ、トラブルがあれば叱られる材料が増えるだけ。金がないなら母の服だけ買えばいいものを、何故私の服まで買うのかと、私は毎回不満を抱いていた。
とはいえ同行を拒否したり、母の長い買い物に不満を言えば叱られる。従って、当時の私にとってこのイベントは、ひたすら母の後ろを黙ってついて歩くしかない、ただ憂鬱なだけの日だった。「給料日」だからだろう、母の機嫌が良いのだけが救いだった。

そんな「お買い物の日」のある時。母は子供服売り場で、ジャンパースカートを買おうと言い出した。紺地に白の大きな水玉模様の、ストンとした直線的なデザイン。背中の下の方、腰のあたりに、安全ピンで留めるタイプの白いリボンの飾りがついていた。

今の私が見ればそれなりに可愛いと思ったのかもしれないが、当時の私はその柄を「派手過ぎる」と思った。紺と白という色彩自体は地味だが、コントラストが強くて目立つ大きな水玉模様は、下品な気がして抵抗があった。しかも、ひらひらしたスカートならまだしも、直線的なジャンパースカートである。当時の私の概念では、全然、これっぽっちも可愛くなかった。
そして何より、リボンという余計な装飾品がついているのが不安だった。こんなものが服に、しかも後ろ側についていたら、絶対に失くしてしまうに違いない。失くせば母が激怒するのが目に見えている。

私は抵抗を試みた。
「こういう服は好きじゃない」などと言っても母が取り合ってくれるわけがないし、センスが悪いと叱られるのが関の山なので、他の方向から攻めた。

まず第一印象の「派手過ぎる、目立ちすぎる」「こんなの着てる子は他にいない」、次に「3980円は値段が高すぎる」、最後に一番の懸念事項「リボンを失くしそう」。

母は、笑いながら私の意見をすべて却下した。だが「学校にはリボンは外していけばいいじゃない」という一言で、私はギリギリ納得した。
自分が嫌いな色やデザインの服を着る、それだけならば慣れている。母がこの服をどうしても買いたいなら仕方がないと、妥協することにしたのである。

翌日、母は登校する私にそのジャンパースカートを着せた。そして当然のようにリボンを腰の後ろにつけようとした。

話が違う。

「学校にはこんなの付けていけない」
「安全ピンなんだから、ランドセルに当たったら押されてピンが外れて、リボンを落としちゃう」
「リボンは学校には着けて行かなくていいと言ったのに」

私は反論したが、「リボンがなかったら可愛くないでしょ!!」と怒鳴りつけられて、口を閉じるしかなかった。

リボンなんかあってもなくても大差ないし、そもそもこんな服可愛くない――そう言いたかったが、これ以上揉めれば引っ叩かれるのは目に見えていた。朝からビンタを食らって泣き顔で登校するのは避けたい。

黙りこくった私に、母はリボンをやや下の位置につけて、「ここならランドセルに当たらないから良いでしょ」と言い、私は仕方なくそのまま登校した。

帰宅するまで、何としても、このリボンを失くさないようにしなくてはいけない。

学校の椅子の背もたれに寄りかからないようにしたりしながら、私は細心の注意を払ってその日を過ごそうとした――が、その注意力はせいぜい午前中しか持たなかった。
学校が終わって帰宅した私の腰には、案の定リボンはついていなかった。

当然、母は猛烈な勢いで怒った。しかし、いつまでつけていたのか、何処で落としたのか、などと問い詰められても、答えられるはずもない。朝学校についた時点でまだあったのは確かだが、体育の授業で着替えた時か、掃除中か休み時間か、下校の途中か――そんなことが分かるぐらいなら、そもそも失くしたりしないのだ。
探せば見つかるとも思えなかった。学校の中や道端にリボンのような目立つものを落としたら、拾った誰かが気に入って、そのまま持ち帰ってしまう可能性も高い。

「だからこんなスカート要らなかったのに!リボン付けて行かないって言ったのに!探したって見つかるわけない!!」

我慢しきれずに叫んだら、引っ叩かれた。

「探してきなさい!!見つかるまで帰って来るな!!」

家を叩き出された私は、途方に暮れた。
見つかるわけがない。つまり、帰れない。

それでも一応、通学路を逆行する形で学校まで歩いた。歩道を真剣に見まわしながら。学校までのおよそ徒歩5分の道を、2往復したが見つからなかった。
学校の校庭も、自分が歩いたあたりは一通り探した。やはり見つからなかった。

校舎に入るのは、何となく良くない事のような気がして躊躇われた。職員室に行って、先生に話して許可を取り、教室を探させてもらう……という所までの知恵はなかった。

時計を見ると、家を出てからまだ一時間も経っていなかった。
探せるところはもうない。しかしリボンが見つかっていない以上、家には帰れない。

――どうしよう。

暗澹たる気持ちで、でも見つからない探し物を探し続けるのも嫌になって、私は通学路から少し外れた公園に行った。
近くの団地の子供たちがよく遊んでいるその公園には小学生が何人かいたが、知った顔はいなかった。少しホッとしながら空いていたブランコに座り、どうしたら良いか考えた。
何も思いつかないまま、やがて日が暮れてきて、公園には誰もいなくなった。夕日のオレンジ色が綺麗だった。

普段なら、もうそろそろ帰らないと叱られる時間だ。
だが、リボンが見つかっていないのだから、帰れない。

リボンが見つからないまま家に帰れば、叱られるだろう。
でも、このまま公園で夜を明かすという案は現実的でないのも分かっていた。明日になればリボンが見つかるという保証もない。ランドセルも家に置いてきているし、つまり、明日このまま学校に行くことも出来ない。

リボンが見つかる可能性は、恐らく限りなく低い。
ということは、いつかは「リボンが見つかっていないのに帰る」をやらなくてはいけない。
どうせ同じように叱られるなら、公園で夜を明かすような無謀をしても意味はないような気がしてきた。

――叱られるに決まっているけど、帰ろう。

すっかり暗くなった道を歩いて、私は家に帰った。
「何故、リボンが見つかっていないのに帰ってきたのか」への言い訳を、一生懸命考えながら。

勇気を奮って玄関を開け、「ただいま」と小さな声で言うと、母の怒声が飛んできた。

「遅い!!こんな時間まで何してたの!!!」

頭が真っ白になった。

「リボンを探し出せなかった」ことについて叱られる覚悟はできていた。だが、「帰宅が遅い」ことを叱られるというのは、私の想定を超えていた。

母の剣幕に硬直した私は、「リボンが見つかるまで帰って来るな」と言ったのはそっちだ――という反論を口に出せないまま、しどろもどろに言い訳をした。

「リボンを探してた」
「こんな時間までか!何時間経ったと思ってるんだ、家から学校までずっと歩いてたとでもいうのか、一往復で10分、2時間で12往復、そんなにずっと歩いてたはずがないだろう!!」

それは、確かにそうだった。
私が真面目に探していたのは、はじめの1時間ぐらいだ。あとはずっと、公園にいた。

――でも。じゃあ、どうすれば良かったのか。

その後、どう叱られたのかは記憶にない。恐らくはしばらく母に怒鳴られて、叱られながら夕飯を食べたり入浴をしたりして、その日一日は終わったのだろうと思う。


今から3年ほど前、母が毒親だったと気付いて下剋上を仕掛けたバトルの際に、私はこのジャンパースカートのリボンの件について、母を問いただしてみた。
といっても全てではない。「『見つかるまで帰って来るな』と言われたから帰れなかったのに、何故『帰って来るのが遅い』と叱られたのか」だけだ。

母の回答は、こうだった。
「心配だったからに決まってるでしょ!大体、そのリボンは見つかったじゃない」

母によれば、問題のリボンは私が翌日、学校で見つけて持ち帰って来ていたらしい。
私はそれを記憶していなかった。私にとっては、リボンが見つかったかどうかは最早どうでも良かったのだろう。

そして母にとってその一件は、単に「私がリボンを失くしたけれど、翌日発見した」としてしか記憶されていないことが分かった私は、そのままジャンパースカートの話を終わりにした。どんなに懇切丁寧に説明したところで、母は恐らく永遠に、この件の何が問題だったのか気付かないままだろうと思う。

あの日、私はきっと、絶望したのだ。
母に対して。そして、自分の意見が通らないことについて。
あの日以来私は、感情だけではなく、「意見」も母に対して極力隠すようになった。

母はずっと、「このスカートの柄が気に入らない」に代表される私の「感情」を「この方がセンスが良いから」というような「理屈」でねじ伏せてきた。そこに関して、私はあの日の時点で諦め、受け入れていた。
私の感情は、母の主張する理屈の前には勝てないのだと。

だが、この件で私が主張していたのは「理屈」だった。
リボンを失くしてしまうという予測をし、それを警告し、実際にそれが現実として起こった。私の反対を押し切って、リボンを付けて学校に行かせた母の失敗だったことは明白だった。にもかかわらず、「だから言ったのに」という主張すら受け入れられなかった。
母がやっていたのと同じ「正当性のある理屈」を主張したのに、それを無下にされたことが、私にはとてもショックだった。

しかも、母は自分で言ったはずの「見つかるまで帰って来るな」という発言の責任すら持たず、私の帰宅の遅さを責めた。
私にとってこれは、明らかな裏切りだった。
母にとって重要なのは正当性や整合性ではなく、「私が母に従うこと」だったのだ、ということを理解させられた一件だった。

同時に、無力感が深く刻まれた。
私の「正しいと思ったこと」など、他者に受け入れられるわけがない――というルールが、私の世界に制定された。私は今でも、自分の感情にも、判断にも、他人に主張できるほどの価値などあるはずがない、と思いがちだ。
この思い込みは、学校や社会にその後私の「正しい判断」を受け入れてもらうことで、オフィシャルな場面ではかなり薄れたと思う。だが、プライベートに関してはまだ根強い。完全に意識から剥がしきるのは、これからの私の人生の課題だろう。

さて。では私は母にどうして欲しかったのか、と考えてみる。

まず、そもそもジャンパースカートを買わないで欲しかった。
私が気に入らない服を、自分の好みだけで買い与え、着せようとしないで欲しかった。それ以前の問題として、私の「好き」や「嫌い」を発言する自由を、奪わないで欲しかった。
私は着せ替え人形ではない。小学生のセンスで「好きな」服だけを毎日着せるわけにいかないのは理解できるが、「嫌いな」服をわざわざ買ってまで着せるような真似はしないで欲しかった。自分の服を買え。そして好きなだけ自分で着飾れ。

次に、「リボンを失くしそう」だという私の警告を受け入れて欲しかった。「リボンを付けずに登校する」ぐらいは、私の意思を尊重して欲しかった。

学校に着いたらリボンを外してランドセルに入れておく、のような対処法を私が思いついていれば良かったという後悔もあるが、私の息子の判断力を基準に考えれば、当時の私がそれを思いつけなくても十分仕方なかったと思う。「リボンがなきゃ可愛くないでしょ」と言われて、外してはいけないと思い込んでいた面もある。

私はずっと切実に、服については機能性を重視していた。ジャンパースカートにリボンが必要かどうかは個人の好みだが、少なくとも当時の私にとって学校はファッションショーの場ではなく、不埒なサル共との戦いの場だった。身の安全の確保、上履きや教科書、文房具などを取ったり隠されたりしないようにすること、取られたら取り返すこと。それだけで日々精いっぱいだった私に、母の「可愛い」に意識を割く余裕などなかった。
それを理解して欲しかった。理解できなくても、せめて「リボンを付けて学校に行きたくない」という主張ぐらいは汲んで欲しかった。

そして。「私の予測通りに」私がリボンを失くしたことについて、叱らないで欲しかった。出来れば受け入れて欲しかった。
恐らく私の忠告などロクに聞いていなかった母には、私の「だから言ったのに」は「失くしたことへの逆ギレ・開き直り」としか捉えられなかったのだろう。だが、私は正確にリスクを予測していて、その通りになっただけなのだ。

「そうだね、ワタリが言った通りに、リボンを付けずに行けばよかったね」

と、そんな風に認めてくれれば、私は傷つかずに済んだだろう。それでも通学路を探すぐらいのことは言われればしただろうし、翌日学校でリボンを探し出す努力だってしたはずだ。

そしてとうとう最後まで、どれも出来なかったとしても――せめて、せめて「見つかるまで帰って来るな」と怒鳴って家を叩き出したことぐらいは覚えていて欲しかった。母の下したその「命令」に従おうとしたからこそ、私の帰宅が遅くなったことぐらいは、認めて欲しかった。

「見つかるまで帰って来るな」と確かに言った。でもあれは怒った弾みに言ってしまったのであって、これから先にもしママがそう言って怒った時があったとしても、きちんと夕方には帰ってきなさい――と、そんな風に母が自分の発言を認めてくれさえすれば、謝罪までしなくても、それだけで私はこの件を飲み込めたと思う。

――そう。
結局、私に引っかかっていたのは「私は悪くなかった」という思いだ。
こうして書き出してみると、ジャンパースカートの件などエピソードとして大した事件ではないようにも思う。だがここまで私の中でこの件が消化できずに残ってしまっているのは、「私は悪くなかったのに」を誰に認めてもらうことも出来ず、自分自身で思うことも足りていなかったからかもしれない。

ただ、アラフォーの今になってこうして振り返っても、やっぱり私は悪くなかった。少なくともこの件に関しては。

そして、あの日の母にとって重要だったのもやはり、「自分は悪くない」だったのだろう。私の「私は悪くない」を受け入れれば、「母が悪かった」を認めることになってしまう。母にとって、自分が悪かったと認めるのは恐らく非常にストレスがかかることで、だから脊髄反射のレベルで私の発言をはねつけた。
せっかく可愛い服を買ってやったのに、一度しか着ていないのに学校でリボンを失くして来て、叱ったら謝りもしないで開き直る我が子に、物の大切さを教えてやった。そんな風に母は自己正当化して、この件を終わりにしたのだろう。

だがこの件は始めから、子供のように我儘を通した母と、姉妹のように母の我儘に振り回された私の「喧嘩」だった。そうあるべきだった。
それが無理矢理、「親の言うことに子供を従わせる」という「躾」や「教育」として実行され、母も私も「躾」「教育」として認識してしまっていたことに問題があった。

母の育児における「毒」は、こういう出来事が日々積み重なったことにある。「ジャンパースカートを子供に買った」こと自体には何ら問題がないのに、その過程や結果、それにまつわる出来事において、子供本人の感情も理論も置き去りにして、自分の主張だけを通していくスタンスのせいだ。
「虐待親」でないレベルの、いわゆる狭義の「毒親」というのは、割とこういうものなのかもしれない。

そして、そう。
あの日の私は、悪くなかった。
「私は悪くなかった」とこうして文字で打っていると、それだけで何か、しこりのようなものが溶けていくような気がする。

アラフォーの今の私の目線で見ると、この件で悪かったのは明らかに母の方だ。親としても、姉妹として見てさえ。
私にずっと必要だったのはきっと、母やジャンパースカートへの恨みではなくて、この「私は悪くなかった」だ。

そうだ。あの日の私は、悪くなかった。

夕暮れの、誰もいない公園で。
ロクに涙も流せずに、ブランコに座ってじっと自分の靴を見つめていたあの日の私が、笑顔になって走っていくまで、何度でも心の中で唱えようと思う。

大丈夫。君は、何も悪くなかったよ。――と。


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