見出し画像

占領下の抵抗(注 xv)三島由紀夫と反教養主義(2025.1.5.加筆)

xv三島由紀夫

高等学生の千編一律の教養体系、西田幾多郎の『善の研究』、和辻哲郎の『風土』『倫理学』、阿部次郎の『三太郎の日記』などの必読書に縛られた知的コンフォーミティが我慢ならなかった。現在にいたるまで私には根強い知識人嫌悪があるが、その根はおそらくこういう少年期のヘソ曲りに源しているに違いない。

『日本の古典と私』[46]

と言っている。

『濁った頭』や『クローディアスの日記』のような異様な作品を書いた志賀が、このような「知識人」に該当がいとうするとは、私には思えません。

『行動学入門』[68]所収の「革命哲学としての陽明学」の中で三島が大正教養主義に触れた箇所で、武者小路実篤志賀直哉を並べているのは不当なことに思えます。武者小路と志賀は共に白樺派を代表する人物ではありますが、全く資質の異なる作家であると思います。

ただ、柄谷行人が「双系性をめぐって」の中で

大正期に、志賀や西田がいわば基層的なものに向かったのは、それ自体、明治的近代のなかにおいてであり、また、西洋という強迫的な「他者」から一時的に解放されたという状況なしには、ありえないのです。

『〈戦前〉の思考』所収「双系性をめぐって」

と述べている通り、志賀の作品もまた大正という時代を反映しているとはいえるのかもしれない。

そして、柄谷行人が

西田も志賀もある意味で、「明治」的な人で、ある強さを持っています。しかし、大正以後の人にとっては、こうしたものが日本独自のものとして自明化されていきました。

『〈戦前〉の思考』所収「双系性をめぐって」


と述べているように、大正教養主義の元祖の1人である西田幾多郎にも、三島の云う

知的コンフォーミティ

『日本の古典と私』[46]

とは異質な側面があったのかもしれない。

このような

大正教養主義

『文化防衛論』[35『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』 [37]行動学入門』[68]

知的コーンフォーミティ

『日本の古典と私』[46]


とは異質な側面が志賀直哉にある事に、三島由紀夫は気が付かなかったのだろうか?
おそらくそんな事はあるまい。

三島由紀夫は学習院の4年先輩の美術評論家・徳大寺公英きんひでとの対談の中で

2人が通った当時までの

「学習院には教養主義に対する侮蔑があってね」

「青春を語る」決定版三島由紀夫全集41

「その三つ子の魂百までってのは今でも残ってるね。
僕は大学の先生ってのさ大っ嫌いだしね。それからそのインテリゲンチャってのも嫌いでしょ。その体質は二十何年経ったって全然治らないね。」

「青春を語る」決定版三島由紀夫全集41

と自分の

「教養主義に対する侮蔑」

「青春を語る」決定版三島由紀夫全集41

の源泉の1つに学習院がある事を述べている。

しかし時期は違えど志賀直哉と白樺派の作家たちも学習院に在籍していたのである。

同対談で三島由紀夫は

「白樺があんまりに学習院を代表しちゃったから、反感を感じたんだな」

「青春を語る」決定版三島由紀夫全集41

と言っている。

三島由紀夫が白樺派に対して、同じ学習院であっても、距離を感じていた事も事実のようではある。
それでも白樺派の作家たちも、同じような学習院の反教養主義を身近に感じていたものと思われる。
人道主義的思想家という側面が段々と大きくなっていった武者小路実篤と違い、志賀直哉は晩年に至るまで、教養主義とは無縁であったように、私には思われる。

また、この対談の中で三島由紀夫と徳大寺公英は、当時の学習院がいかに暴力に溢れていたかを繰り返し話題にし、そしてそれが学習院の学生の封建的家庭環境から来ている事を述べ、そういった環境が白樺派の文学にも影響を与えている事を指摘している。
志賀直哉の小説「和解」で描かれた親子の確執は、その典型例であろう。

それは具体的には

「お家騒動からね。家ん中で誰が殿様方で誰が奥方方だとかね。(中略)
それから、うちん中に腹違いの兄弟がいっぱいいるとかね。
それから、まぁ、財産争いとかね。
そんな事がどこのうちだってない家はないよ。
そんな中で揉みに揉まれて、お父さんは嫌でも威厳を持って、完全な父権性社会だから」

三島由紀夫談「青春を語る」決定版三島由紀夫全集41

と云った家庭である。

三島由紀夫と志賀直哉に時に現れる暴力性は、学習院とその師弟の家庭という共通の地盤があるように思われる。

以上のようなことからも、三島由紀夫の志賀直哉に対する態度について考える時には、安直に捉えずに、少し留保がいるように思われる。

三島由紀夫は1966年の安部公房との対談で

「ただ僕が伝統などと言うのは、やはり一種の敵本主義でそういうことを言うのだ。」

『文学者とは何か』所収「二十世紀の文学」

と言っている。

そして

「志賀直哉氏のは立派な文学だが、ああいうふつなものだけが日本語の特質であって、もっとデコラティヴな西鶴以来の、ああいう連想作用の豊富な、メタファーの豊富な文学はだね、ぜんぜん、つまり日本文学の美しいものではないというふうな考え、それでずいぶんひどい目にあってる作家が、どれだけいるかわからないよ。泉鏡花だろうが、岡本かの子だろうが、だれだろが」

『文学者とは何か』所収「二十世紀の文学」

と言い

「僕がいまだにくやしくて覚えているのは、小学校のとき綴り方を書いて、そのころはみんな志賀直哉が最高のお手本だよ。小学生に志賀直哉を読ませてもしようがないのだけれどもね。あれに少しでも似ていない文章は、もう悪い文章で、形容詞が一つあってもいけないのだ。つまり、ああいうふうなものが最高だと。そうして、ああいう写生文なり、写実的なね、非常に象徴の域にまで入った写実が最高だという考えね。」

『文学者とは何か』所収「二十世紀の文学」

と小学生の時の思い出を語っている。


三島由紀夫の志賀直哉に対する態度は、このような現状に対して対抗する為のもので

三島が

「一種の敵本主義」

『文学者とは何か』所収「二十世紀の文学」

というように戦略的なものであろう。

『文章読本』の中で

日本語のいかに堪能な西洋人でも、森鴎外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な味、水に似た味わいをもっているからにほかなりません。

『文章読本』

と敬愛した森鴎外と並べるかたちで、三島由紀夫は志賀直哉の名前を上げています。志賀直哉を高く評価していた事がうかがえます。

三島由紀夫は『蘭陵王』(新潮社)所収の「日本への信条」(1967年)のなかで

戦後、日本語をフランス語に変えよう、などと言った文学者があったとは、驚くにたえたことである。

『蘭陵王』所収「日本への信条」

と述べている。これは志賀直哉の「国語問題」の事であろうが、多弁な三島にしては、なんとも簡潔な言葉である。

三島由紀夫は同『蘭陵王』所収の「「変革の思想」とは」(1970年1月)の中で、井上清の『全人民的激動の予震』という文章を批判するという文脈の中ではありますが(この井上清の文章を私は読んでいないのですが)

学生の勇気の証明を黙秘権に置くのは、論理的矛盾である。なぜなら、死を賭けるべき黙秘を、「黙秘権」として基本的人権と接着せしめた法体系こそ、思想の相対化によって柔構造社会を成立せしめた張本人であり、その権利を利用することは、すでにそのような法体系を容認することでこそあれ、何ら勇気の証明にはならぬからである。

『蘭陵王』所収「「変革の思想」とは」

と述べている。
これを書いた年の11月25日に三島由紀夫は割腹自殺を遂げている。

三島由紀夫は、多くを語ったが、時に簡潔すぎるほど簡潔にしか語らない事がある。
志賀直哉の「国語問題」について、また注 xxi で取り上げた坂口安吾についてもそうである。

三島由紀夫は

死を賭け

『蘭陵王』所収「「変革の思想」とは」

て黙秘を守ったのかもしれない。

その黙秘された心のうちを想像するのには、困難が伴うが、三島由紀夫が言葉少なに語った中にこそ、重要なものが隠れていると思えてならない。

引用文献・音声:

①三島由紀夫, 『古典文学読本』[46]中央公論新社,初版発行 2016.11.25. 、再版発行 2020.5.25. うち「日本の古典と私」初出: 1968.1.1.他「山形新聞」

三島由紀夫、『行動学入門』文藝春秋社1974.10.25.第一刷、2021.2.25.第45刷、三島由紀夫による後書きは1970年に書かれている。各エッセイの初出はそれ以前。)[68]

③『〈戦前〉の思考』柄谷行人
1994.2.1.第1刷
1994年4.10.第4刷
発行所: 株式会社 文藝春秋

④ 決定版三島由紀夫全集41 音声
発行2004.9.10.
著者: 三島由紀夫 
発行所: 株式会社新潮社
「青春を語る」は昭和44年11月12日に、東京・有楽町の日活ホテルのレストランで行われた。

⑤ 『文学者とは何か』
2024.12.10.初版発行
著者: 安部公房  三島由紀夫  大江健三郎
発行所: 中央公論社
「二十世紀の文学」初出1966.2.「文芸」

⑥『文章読本』ー 新装版
1973.8.10.初版発行
2020.3.25.改版発行
2024.1.30.改版3刷発行
著者:三島由紀夫
発行所: 中央公論社

⑦『蘭陵王』ー 三島由紀夫 1967.1〜1970.11
1971.5.1.印刷 1971.5.6.発行
著者: 三島由紀夫
発行所: 株式会社新潮社
「日本への信条」初出:1967.1.1.「共同通信」
「「変革の思想」とは」初出:1970.1.20.〜22.『読売新聞』


この記事は↓の論考に付した注です。本文中の(xv)より、ここへ繋がるようになっています。

いいなと思ったら応援しよう!