東京国立博物館<やまと絵>展:おそるべし雪舟!あなたは桃山障壁画の祖か?なぜ樹木・草葉をそこまで突き出して描くのか?
はじめに
前回の記事で、東京国立博物館で行われている「やまと絵」展で典型的な「やまと絵」《浜松図屏風》と、これまた典型的な「水墨山水」《四季山水図屏風》が並列展示されていて、二つの屏風を対比して見ることでこれまでピンとこなかった「水墨山水」の本質に触れることができたことを紹介しました(下記を参照ください)。
「やまと絵」展は、全期間を4つに分けて作品を入れ替えます。残念ながら1回で全てを見ることが出来ません。ただ4回も見るのは大変なので、第二期の大きな目玉である《伝源頼朝像》《伝平重盛像》《伝藤原光能像》、「神護寺三像」を見ることは諦めて、第三期の展示を見ることにしました。
第三期では、「やまと絵」《浜松図屏風》が《日月四季山水図屏風》に、
水墨山水は、伝周文作《四季山水図屏風》から雪舟等楊作《四季花鳥図屏風》に変更されていました(下図)。
「やまと絵」と「水墨画」を対比させて鑑賞者に見せる主催者の目的は同じなので、基本的には前回の記事で述べた内容は変わりません。
ただし前回は典型的な水墨山水画だったのに対し、今回は次のような大きな違いがあります:
そこで、今回は以上の違いで感じたことを補遺として述べたいと思います(長文になります)。
第一印象
最初に、この雪舟の花鳥画を見たときの印象を下記に記します。
今回は、代表的なやまと絵の次に代表的な水墨画が現れることは分かっていたので、不意打ちを感じる驚きはまったくありませんでしたが、別の意味での嬉しい驚きと戸惑いがありました。
1)まず、喜びの理由は雪舟の作品であったこと。
以前にも書きましたが、いったい彼の絵がどこが素晴らしいのか、また山水画にしても本家の中国の絵と何が違うのかさっぱり分からない私としては、一度雪舟の絵の実物を見て凄さや独自性を感じたいと思っていました。はからずも対面出来たので嬉しく感じたのです。
2)次に、戸惑いは、山水画ではなく花鳥画であったこと。
実は、以前ピーター・ドラッカーのコレクションについて記事を書いた時に、彼の室町花鳥画のコレクションと彼が日本の花鳥画について絶賛していることについてはあえて触れませんでした。それは島尾新氏の新書を読んだ中には花鳥画が説明されておらず、勉強不足だったからです。それは現在までも変わらず、目の前に花鳥画が出てきて戸惑ったという訳です。
簡単に今回初めて見た瞬間の印象とその後頭の中を駆け巡った思いをまとめてみます。
何というべきか、教科書で見慣れた雪舟の多くの「山水画」作品や《慧可断臂図》、《天橋立図》とはまったく様子が違います。
花鳥画なのに、何かただ事ではないものを感じました。
それでは、その第一印象の中身をもう少し詳しく調べてみましょう。
第一印象の中身を分析してみます
さて、いよいよ雪舟と対峙しなければならなくなったようです。しかも山水画ではなく不慣れな花鳥画で。
とは言え、ドラッカーの記事を書いて以来手をこまねいていたわけではなく、花鳥画については次のような準備はしてきました。
一つは、宮崎法子著「花鳥山水画を読み解くー中国絵画の意味」(ちくま学芸文庫)(2018)の花鳥画についての解説を読み込んだことです。
そして、web上で中国と日本の有名な花鳥画の作品の画像を見ることで、中国と日本の違いを感じること。
いずれにせよ、にわか勉強の域を脱していません。しかしまずは実物を見る機会ができたと言うわけで、ここではあまり学術的な裏付けをとらずに自由に書いていきたいと思います。
(1)あえての仮説:雪舟こそ桃山障壁画の祖ではないのか?
通常の水墨花鳥画ではなく安土桃山時代の障壁画だと直感的に思ってしまった理由を述べます。
それは第一に、ドラッカーが集めていた花鳥画がどれも小品であるためで、花鳥画は小さいものだという先入観を持っていました。ですからまず今回の雪舟の屏風絵の大きさに驚いたことです。
二つ目の理由は、少なくともweb上で見た一連の中国の花鳥画(明朝以前)では、このように幹の太い樹木が迫力を持って配置されていないこと、しかも鶴の場合であれば、「竹と鶴」あるいは「松と鶴」に加え、岩との組み合わせがある程度の数に抑えられており、今回の雪舟の絵のように、花木(椿)だけでなく、草花が同じ画面に描かれるなど一度にたくさんのアイテムが描かれていないことです。同様に、雪舟以前の日本の画家が描いた花鳥画も中国に倣っておりシンプルです。
要するに、この時代としてはオーソドックスな中国の水墨画の描き方から外れた雪舟独自な描き方のように思うのです
■中国の鶴図および花鳥図
具体的に上で述べた中国の花鳥画(鶴以外も含む)の例を示します。
例えば、その後の日本の水墨画の手本になった、牧谿の《絹本墨画淡彩観音猿鶴図》の中の鶴図:
また、次の元、明代の鶴図を見ていただければそのシンプルさはお判りになるでしょう。
鶴以外の鳥の花鳥図でも同様です(例示は省略します)。
ここで注目したいのは、以上示した鶴の絵では草花はほとんど描かれていないことです。
逆に草花が多く描かれる花鳥図も存在します(下図)。
しかしこの場合は、鶴ではない鳥と草花と樹木、鳥と草花、鳥と草花と岩というやはりシンプルな組み合わせからなる画面構成です。
ところが、雪舟の《四季花鳥図屏風》は、描写こそ中国の水墨画の正統な筆法に倣っていますが、冒頭で述べた様に明らかに画面構成が異なります。もともと、屏風に四季を描くのはむしろやまと絵の常道ですから、中国の水墨画と異なって当然です。
■狩野派の花鳥図屏風
次に中国の花鳥画ではなく、雪舟より14年後に生まれた狩野派の祖と言われる狩野正信の《竹石白鶴図屏風》を見てみます(なぜかフリー画像が得られないので間接的な例示になります。クリックして元の記事でご覧ください)。
あるいは、京都国立博物館・特別展の記事の中の画像:
屏風絵全体を見ていただけたでしょうか?
画面構成は雪舟の絵とほぼ同じですが描画の力強さは雪舟の方が勝っているように思えます。また草花もあっさりとした描写で、後年の狩野派の障壁画を思い浮かべると、どちらが狩野派なのか分かりません。
次に正信の息子、狩野元信の花鳥画屏風をみてみましょう。画風はより狩野派らしく華やかで豪壮になります。しかし描写はやまと絵的な様式的、装飾的な表現が入ってきます。
ついでにさらに後代の狩野永徳の例を以下に示します
元信、永徳では、漢画、やまと絵表現をたくみに融合し狩野派の絵画を完成させているように見えます。
このように典型的な狩野派の絵を見た後に雪舟の絵の構成だけみると、狩野派の絵を始めた本家、狩野正信よりも狩野元信の絵の印象に近いのです。
もちろん一般に日本美術史では、雪舟は狩野派の祖と言われていません。しかし今回の花鳥画を見る限り雪舟こそ桃山時代の「障壁画」を先取りした、あるいは狩野派の「祖」と言えないのかと私は思ってしまうのです。
もっとも狩野正信は、雪舟より若いとはいえ、制作年代は少し重なりますので、もしかしたら正信がやはり「祖」で、雪舟の方が正信から影響を受けた可能性も否定できません。
あるいはもう一つの可能性、雪舟も正信も独立にこのような画風を生み出したこともあり得ます。
現時点では、それらを証明することはできませんが、次に述べる理由から、この時代こそ、中国(宋)の水墨画から脱して、日本独自の「障壁画」を生み出すことになったのではないかと私は推測します。
以下その推測の理由を述べます。
■水墨画は誰のために描かれたか?
「絵」は時代を映すといいます。現代の絵画と違い、東洋であれ西洋であれ、昔は絵は一般市民のためではなく、一握りのパトロンおよび限られた階級の鑑賞者のためでした。
雪舟の生きていた年代とそれ以前の中国を例にとれば、王侯貴族や皇帝であり、宋になれば科挙により選抜された高級官僚が加わります。
一方、日本はどうか、中国と決定的な違いが鎌倉以降生じました。すなわち武人政治家の出現です。具体的には将軍であり、室町時代末に地域ごとに権力を握った大名達です。
さて室町時代に禅僧によりもたらされた水墨画は、日本では南宋の牧谿の絵が好まれ、また夏珪様などの形で中国の描き方を日本人の画家は忠実に守っていました。
■雪舟は花鳥画を誰のために描いたか?
雪舟もその例にもれないのですが、ここ20年来、赤瀬川原平氏や明治学院大学の山下裕二氏、最近では山口晃氏が「日本美術応援団」の活動の中で、また学習院大学の島尾新氏は、雪舟が単なる中国絵画の忠実な模倣者、継承者ではなく、破天荒で革新的な一面を持つことについて一般読者向けの著書にて説いています。
ただ雪舟のこの《四季花鳥図屏風》については、言及はほとんどありません。
今回、私は《四季花鳥図屏風》に中国の花鳥図(鶴図)とは異なる印象を持ち、しかも狩野派の障壁画の気配を感じました。
その理由は次のように考えてみたらどうでしょうか?
この花鳥画が特定の権力者の依頼で描いたと仮定します。その権力者は誰でしょうか? おそらく雪舟を庇護した守護大名の大内氏ではないでしょうか。
中国の大型の山水画が、皇帝や高級官僚向けで、宮廷の壁に飾られる公的で政治的な性格を持つとすれば、花鳥画はその山水画を補完する形で、私的な空間、女性も鑑賞する場で用いられたとのことです。(宮崎法子著「花鳥山水画を読み解くー中国絵画の意味」(ちくま学芸文庫)(2018))
おそらく、それが中国の花鳥画が、構成はシンプルで、やさしい印象に描かれた理由でしょう。
一方、日本の障壁画を考えると、花鳥画ですら大画面に描かれ、中国の皇帝や高級官僚とは異なる嗜好を持つ武人、戦国大名が気に入るように、巨大化・装飾化し豪華絢爛な絵になっていったと言われています。
すると、同じような理由で雪舟は守護大名の大内氏に気に入られるように、四季花鳥図屏風の構成を考えたことは十分あり得ます。すなわち狩野派の障壁画が生まれた同じ発想を雪舟はしたのではないか。
ですから、ほぼ同時期の狩野正信が武人政治家相手に同じ発想で狩野派の障壁画の基を考えた結果、雪舟と同じ構成になったと考えても不思議ではないでしょう。
(2)前後感、奥行き感はどこからきているのか?
さて、私が感じた《四季花鳥図屏風》のもう一つの大きな特徴、全体から受けるとてつもない奥行き感、樹木の枝葉、根、重なる岩・山、草の葉の個々の造形が通常では見られない程前後の方向に描写されていることについて考えたいと思います。
■なぜ専門家は樹木の描写、草の葉の描写に注目しないのか? 「線スケッチ」の観点から
ここで、「線スケッチ」における樹木の描写について話題を変えます。
これまでのスケッチ講師の経験の中で、初心者の方が風景画を描くにあたって、ほぼ全員がつまずく二つのハードルがあることに私は気が付きました。
それは、次の二つです:
特に2)については、約2年前そのハードルを乗り越えるために、どのように観察し描いたらよいのかについて記事にしました。
同時にそれ以来、古今東西の画家達が、中遠景の樹木をどのように描いているのか、目を凝らしてみる癖がついてしまいました。
最初に発見したのが、歌川広重が樹木の特徴を正確に観察し中遠景樹木を見事に描き分けていることです。(一方葛飾北斎は別の手法を採用しています。北斎漫画に描かれた近景樹木の写生画とは異なり、中遠景の樹木は、〇▢△に還元してデフォルメ化した抽象表現で、完全にセザンヌを先取りしています)
不思議なことに、私が目を通した限り水墨山水や花鳥画においては、専門家の一般向けの本では、樹木や草花の描写について断片的な言及はあるものの、岩、山、人物、楼閣、滝、雲霞の描法に比べて樹木、草花の絵画論に基づく解説を見たことがありません。
今回のやまと絵展の展示作品についても、私はすべての作品を以上のような観点で詳しく観察してみました。
ここでは、雪舟の《四季花鳥図屏風》の樹木・草花の描写を見てみましょう。 その前に、もう一度全体像を思い出していただくために、左隻、右隻の全体図を下に示します。
■松と梅の枝ぶり、枝の突き出し方、根の突き出し方
まず、右隻の松と左隻の梅の枝の部分を取り出し、手前に突き出している枝だけを赤い楕円で示します(理屈では、枝の向きは手前、後方、平行の三つの向きがありますが、ここでは雪舟の前方を重視する姿勢を示すために手前への突き出しのみ示します)。
なぜこれらの枝が手前に突き出していることがわかるのか、それは主幹あるいは主枝から手前に出る時の枝の根元の描写で判別できます。
最初に樹木の枝の付き方を模式的に示して説明します(下図)。
まず、最初に大地に立つ大きな樹木を想定してください(例えばヒマラヤ杉のような枝が下向きに広がるタイプ)。
結論から先に言うと、ほとんどの初心者は、真横に広がる枝、C, C’しか目に入りません。真ん前に突き出た、Aはもちろん、斜め手前に突き出るBやB’もまるで見えていないようです。すなわち、樹木の枝は主幹に対して360度立体的に付いていることを忘れてしまうのです。仮に気が付いたとしても、真ん前に突き出た枝をどのように描いたらよいか分からず戸惑ってしまうのです。
ですから、初心者は樹木の枝を線描すると、真横の枝C,C’だけを描くことになってしまいます。
少し拡大して、主幹に対して枝A,B,Cが実際にはどのようについているか見てみましょう。特に枝の根元に注目してご覧ください。
枝A,B,Cの主幹に対する付き方を描き分けると、上図の3)のようになります。真ん前に突き出た枝Aの根元は、幹の真ん中になりますし、斜め前に突き出た枝Bの根元は幹の中心の少し左側から、当然ながら枝Cは主幹の真横から出ることになります(実は、今回展示されたやまと絵の樹木の枝は、例外なく真横についている描写です。ただ注意しなければならないのは、やまと絵の絵師が絵の初心者同様で稚拙ということを必ずしも示すわけではありません。別の記事でやまと絵の遠近について考察したいと思います)。
以上を頭に入れて、雪舟の絵の枝の根元の描写を見てみましょう。
下に、右隻の松の手前に飛び出した枝の根元部分を、左隻の梅の前に飛び出した枝の根元部分の原図と輪郭だけを取り出した図を対比して示します。
いかがでしょうか。雪舟は先に示した模式図の3)に忠実に従って描写していることが分かります。
枝の根元の描写まで、全ての中国の水墨画および日本の水墨画を調べた訳ではないのですが、一般に水墨画の樹木表現が大変リアルにみえることは確かです。もともと水墨画の描き方が現代の画家と同じ立体表現法を採用したためだと思います。
しかし、それにしても雪舟は、特に枝の手前への突き出しにこだわっているように思います。
中でも、右隻の右上の松の、真ん前に向かって突き出している枝は、中国でも日本でもほとんど例がないのではないか。真ん前に突き出したものを描くのはほとんどの画家も避けるのではないかと思うのです。
かなり変わった嗜好だとしかいえません。
この前後の向きに対する表現の嗜好は、樹木の枝だけにとまりません。鶴の足元や岩と地面に描かれた草の葉の方向も同じく立体感に溢れています。
次に詳しく観察してみましょう。
■草の葉の突き出し方、前後の描写
まず、右隻、左隻に描かれた、草および椿の葉の描写を抜き出してみます。原図だけでなく、対応する葉の輪郭も示します。
1)右隻のススキ、オモト、笹の葉の描写
2)右隻のツバキの葉の描写
3)左隻の雪原の中の笹とススキ(萱?)の葉の描写
私は、それぞれの葉の輪郭を模写しながら、思わず「凄い!何という観察力、うまい!」という感情が沸き起こりました。
もっと言えば、「本当に室町時代の人間が描いたのか?」と。
私のこれまで学んだ教科書の知識では、江戸中期の円山応挙が写生を窮めた画家であることが思い浮かぶのですが、遡ること300年近くも前の雪舟がこれほどまでに写生を徹底しているとは意外でした。
例えば2)のツバキの葉の写実感にあふれた描写をご覧ください。
スケッチ教室で初心者の方に、実物を見て、あるいは写真を見て、ソメイヨシノの葉っぱを描いてくださいというと、本物の形を見ているにもかかわらず、かなりの人が、下の図の左の形を描きます。
どうやら実物を目にしても、対称形の葉の形、すなわち以前の高齢者マークのような形を先入観として思い込んでいるらしいのです。
ところが、右側のソメイヨシノの現実の葉の形を見ればわかるように、葉の先は一度曲率が変化して、先が細くなっていることが多く、しかもどちらかに曲がって、対称形ではないのです。
さらに、葉脈は、中心から縁に向かって曲線を描くのは良いのですが、縁近くでは分岐する形になります。
雪舟は、葉先もちゃんと非対称に描いていますし、葉脈も中心部だけで縁には到達してはいません。そして、葉の裏側や表面を微妙なねじれで見せたり、通常人はあまり描くことがない、まっすぐ手前に突き出た葉まで描いており、そのリアル感が半端ではありません。恐るべし雪舟!
それは、1)のススキ、オモト、笹の葉、3)の雪の中の笹とススキ(萱?)の葉の描写においても共通しています。
なお、屏風絵の水墨花鳥画でこれほどまでに写実的に描かれた草花は雪舟以後現れてきません。
その後の狩野元信、狩野永徳らの狩野派の屏風絵だけでなく、桃山期の長谷川派(長谷川等伯他)、海北友松、雲谷等顔らの絵を見てみましたが、一見写実風に描いているように見えて、ある種定型化、様式化しており雪舟のような生き生きした感じはないのです。
ここで狩野元信や永徳を擁護すれば、彼らは時代(戦国大名)の要請に従い、(金碧)障壁画という新しいスタイルを生み出し、完成させたのであって、あえて写実的に描かなかったのだと私は思います。
だからこそ、江戸の世になり、狩野派の絵が粉本主義により定型化、陳腐化したあと、中期になって円山応挙が出現し、そのストイックなまでの写実的描写が評価されたのかもしれません。
ただ注意すべき点があります。輪郭を描き写して分かったのは、雪舟は単に実物をそのまま写生をしているわけでもないということです。
その理由は、1)、2)3)のそれぞれの葉の向きの比率を概算すると、8割程度が手前か斜め手前の葉で、後方に向かう葉があきらかに少ないからです。
一方、1)のススキの背後にある蓮の葉っぱを見てください。蓮の葉は、他の草の葉の手前への向きとは逆らうように葉の裏側を見せて茎がすべて後方に向かっており、手前に向かう蓮の葉はありません。
ですから、雪舟は意図的に葉っぱの方向を決めていると推測できます。
それは何のためでしょうか、理由は以下のように考えます。
すでに多くの専門家が指摘しているように、雪舟は右隻の場合で言えば、一番手前の松の枝、岩、松の根、松の巨幹、ツバキの幹、鶴、その後ろの右から下に流れる滝と渓流、対岸の岩、さらにその先の岩山さらに奥の霧にかすむ岩山の順に、幾重ものオブジェクトを手前から重ねて、鑑賞者の眼を奥へ奥へと誘導しているのです。
このような奥への誘導は、左隻の雪景色でも同じように見られます。すなわち、ススキ(萱?)が繁る地面が上方へかさなり、さらに空に近い左上に向かって雪山のなだらかな稜線を重ねてやはり眼を奥へ奥へと誘導しています。
このような奥への一方的な誘導を考えると、雪舟は樹木の枝を手前に突き出し、草の葉を手前、手前に描くことによってバランスをとろうとしたのではないかと私は考えたいのです。すなわち、奥へ奥へと手前に手前にとが合わさって空間的な前後の広がりが明らかに増すからです。
なお、このような奥へ奥への誘導は、北宋の巨大な山水画が聳え立つ岩山を使って上へ上へと誘導しているのとは対照的のように思います。これは、雪舟独自の奥行き表現なのか、それとも牧谿など南宋・山水画では普通なのか今後確認したいと思います。
(3)長く垂れ下がった松の枝は何のためか?「すだれ効果」狙いなのか?
第一印象の2番目に次のような内容を記しました。
雪舟のこの花鳥画を見た時に、異様に長く垂れ下がる松の枝に違和感を覚えました。しかもその枝には葉が着いていますから、背後に描かれたものを遮るかたちになっているのです。
一言で言えば「うっとおしいなー、邪魔でしょうがない」です。
そこで、同時代およびそれ以降の山水画(花鳥画も含む)を調べてみました。
山水画において、巨木を描く場合太い主幹を描くだけで画面一杯になり、上部のほとんどの枝葉は描けないので、上から枝が垂れ下がる枝葉を描いて示すのはごく普通の事です。しかし、その垂れ下がり具合は、ほとんどの場合、絵の上部、1/3以内の幅に収まっており、長くても半分の高さの例があるだけです。雪舟のこの絵のように地面近くまで垂れ下がる例は全くありません。
以前示した狩野元信、永徳の花鳥画の松の枝の垂れ下がり方と、雪舟の花鳥画の松の枝の垂れ下がり方の比較図を示しますので、様子をご確認ください。
雪舟が後ろの事物と重なるように松の枝の位置を下に方に定めているのは明らかです。私は、雪舟はある効果を狙ってそうしたのだと推測します。その効果とは、「すだれ効果」です。
「すだれ効果」については、馬渕明子著<ジャポニスム 幻想の日本>㈱ブリュッケ(新版2015)を読んで始めて知りました。
すだれ効果は「前に簾や草を置くことによって、その向こう側に描かれたものをいっそう引き立てるという効果」で、視線を手前から奥に向かわせるような構図は日本独特で、古くは源氏物語絵巻から江戸時代の浮世絵まで続く、伝統的な表現であり、田中英二氏により近年名づけられたとのことです。
そして、馬渕氏は、モネの《木の間越しの春》の例を挙げて、絵画技法的にはジャポニスムの影響が全くなかったように思われていたモネが、実は手前に樹木を置くことで、日本のすだれ効果を採用していたことを指摘しています。
ここでは、簾や草ではなく樹木の枝葉を通して、奥の川、そして対岸の家々を引き立てているのです。
まさにこの樹木の枝葉を下からではなく、上から垂らせば雪舟の松の枝葉になります。それが私がすだれ効果を雪舟が狙ったのではないかと考える理由です。
さいごに
「やまとえ展」という一見水墨画とは関係のない展覧会にて、雪舟の花鳥画の実物と対面する機会を得ました。
なんども言ってきたように、雪舟の描く水墨画がいったいどこがすごいのか、中国の水墨画と何が違うのかさっぱりわからず、また理解するための糸口すら見いだせなかった私ですが、今回彼の水墨山水に比べて言及されることが少ない《四季花鳥図屏風絵》の描法を「線スケッチ」の立場から分析することで、その凄さの一端に触れ、雪舟が、あたかも西洋が規定する芸術家、画家のように思えてきました。
さいごに強調したいのは、やはり実物を見なければだめだということです。今回の記事で紹介した圧倒的な空間の前後の奥行き感、写実感、すだれ効果などは、印刷物では到底得られません。
今後も中国および我が国の水墨画については機会を捉えて実物を見に行きたいと思います。
(おしまい)
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