「江口寿史展 ノット・コンプリーテッド」(世田谷文学館)その1. スケッチに役立つカワイイ顔が一杯
はじめに
世田谷文学館で行われていた、イラストレーターの江口寿史氏の展覧会に先週の金曜日に行ってきました。
本展覧会が行われていることはまったく知らず、当日朝見たくなる展覧会が開催されていないかと検索して始めて知ったのです。
以前から江口氏のインスタグラムをフォローしていたので、もしかすると原画を見ることが出来るかもしれないと思い急遽でかけることにしました。
余談ですが、世田谷文学館は時々思いがけない企画展をします。2021年にも漫画家の谷口ジローの展覧会を開催しました。
内容が大変良かったのですが、まとめるのが難しく記事を書くのを諦めました。このときは、ポスターに描かれた作品「歩くひと」の背景画の樹木の描き方が大変参考になると思ったのが訪れた動機です。
スケッチに役立つカワイイ顔が一杯
今回始めて知ったのですが、江口氏はもともと漫画家だったのだそうです。1977年にデビューとのことですが、当時私は漫画とはまったく無縁の世界にいたので知らなかったのは当然です。
ですから、いつのころからか分かりませんが、
のイラストレーションを知って、イラストレーターだと思い込んでいたのです。
中に入ると思っていた以上に多くの作品が展示されていました。ところが半数いやそれ以上に、漫画作品の原画や下書きの資料の展示が主体で、イラストレーションの作品はむしろ少ないのです。
しかし、それがかえって、線スケッチの立場からは大いに役立つことになりました。
なぜ役立つ内容だったのか理由を説明します
昨年末から今年にかけてスケッチ教室の二名の生徒さんから、女性の顔の描き方について相談を受けました。お二方をそれぞれAさん(女性)、Bさん(男性)とします。それぞれの内容は以下の通りです。
(1)Aさんの相談:今後描きたいモチーフとして、エレガントに年を重ねた中高年の女性がファッショナブルな服を着て町を歩く姿を描きたい(日本だけでなく世界各地も) 品よく年齢を重ねた女性の顔を描いてみたがうまく描けない、どうしたらよいか。
(2)Bさんの相談:正月に長男夫婦、次男およびその彼女を入れて家族の食事風景をスケッチした。息子の彼女がおいしそうに食べる口元や表情がほほえましくその瞬間を描いた。しかし描き終わって思ったのはリアルに描けたのは良いが、見せてほしいと言われたときに果たして喜んでくれるだろうか心配になった(少しリアルに描き過ぎた)。
いずれの相談ももっともな内容です。共通点は、女性の顔の描写です。
(1)は年齢相応の人物の顔を品よく描くことが難しいことはよくわかります。最小限の線で人物の顔(年齢や表情など)をいかに表すかという課題です。
(2)は結構身につまされる心配です。なぜなら、女性の心理に関わる問題だからです。よく言われるのは、「いかに上手にリアルに描いても女性は描かれた自分の姿になにがしか不満を持つらしい」という女心の問題です。
しかしはたしてそれが女性の心理として一般的なのかという疑問があります。ただ印象派や後期印象派の巨匠たちが、サロンの女主人や友人の恋人から自分の姿を描いてほしいと頼まれて、いざ完成して渡そうとすると拒絶されたというエピソードがいくつもあるので完全否定はできないでしょう。この場合はカワイイあるいは美人顔で描くことが対策になります。
私自身は、いつも現場の写生描きでリアルな顔しか描かないので、相談に十分答えることができません。
そこで以前からアドバイスしていることは、漫画家が描く女性の顔の描写を参考にしてみたらということです。特に(2)の相談に対してはカワイイ女性を描く漫画家を参考にすることをおお薦めします。
私は必要最小限の線で人物を描くことにかけては漫画家の右に出る者はいないと思います。なぜなら、漫画はキャラクターデザインとそのしぐさ・ポーズの描写が肝心だからです。
現在多くの漫画家が本であれweb上でも人物の描き方について解説していますが、私自身はきちんと読んだり見たことはありません。
ところが、今回の展覧会では、多くの漫画の作品が展示されていましたので、この機会を逃さず、女性の顔の描写について特に注力して見ました。
かわいい女の子の作品を写真に撮り、切り抜いて並べてみた
私がこれまで考えてきた女性の顔を可愛く線描するコツですが、特に目の描き方が大切だと思います。それを下に示します。
さて、今回の展覧会では、入り口の受付女性が入場券の確認が終わるなり、「作品は一部をのぞきほぼ全て写真撮影できますよ」とわざわざ教えてくれました。いきなりなので驚きましたが、きっと漫画家の卵やイラストレーションを見に来た若者がいつも尋ねるからでしょう。
それでは、以下に江口氏の作品の写真から女性の顔の描写を切り抜いて紹介します。
図1に10代前半の少女の顔の描写例を、図2に10代後半の少女の顔の描写例を示します。いずれも漫画の主人公で、読者層を考えると当然中学生、高校生の女性が中心になります。
江口氏のカワイイ少女の顔の描き方はその長い経歴の中では基本変わっていないのですが、デビューの1977年から1980年前半の間の顔(図1の上段左半分)と比較すると、1980年代後半から1990年代前半頃には、現在描いているイラストレーションのカワイイ女性顔に近づいているのが分かります。
なお、目の描き方に注目すると、前述した私の目の描き方と対応しているのがわかります。
ただ、今回顔を切り抜いて新たに分かったのは、前髪の描き方です。他の作家は分かりませんが、少なくとも江口氏が描く10代の少女は、ほぼ全員前髪を前に垂らしています。
理由はよくわかりません。カワイイ少女を描く必須アイテムかもしれません。
年齢ごとに顔の描写を切り抜いてみた
会場を巡って私はある場所で足を止めました。それは「岡本 綾」というタイトルの漫画で、75歳のおばあちゃんがある日突然若返り始め、数ヵ月で若い女性に変化して、家族内でドタバタ劇(?)が始まるという内容です。
そして嬉しいことにその若返りの過程が描かれているのです。まさに、年齢別の描き分けを知るには絶好のチャンスです。
図3にその顔を切り抜き若返りの変化の順に並べてみました。
年代ごとの描写の特徴は次のようになります。なお理解しやすいように、漫画とは逆に、通常の人生と同様若い女性から高齢女性への順に記述します。
自分が老人のため、人が老いていく過程を書いていて身につまされる思いがします。ましてや美を気にする女性にとっては何か残酷な過程を書いているような気がしてきました。しかし、これが現実です。受け入れざるを得ません。
さて、上の図4に示した中高年以上の年代の描写では、まだ「品よく、美しい中高年女性」を描きたいというAさんの相談の答えになっていません。
そこで、今回の展覧会で見つけた、他の全年代の顔の描写を次に示します(10代の少女、図1、図2を除く)。
乳幼児および小学生の顔の描写については、ここではコメントしません。さて、品が良く美しい大人の女性として図7の39歳の女性がその例になりますが、図3の例しか中高年の女性の顔の描写は見つかりませんでした。
おそらく、この39歳の女性の顔を図3の手順に沿って50代、60代の顔を描けばAさんが望む「品が良く美しく年を重ねた中高年女性」の顔になるのではないでしょうか。
しかし結論を言えば漫画家の場合は、中高年を描くことは少ないので参考にするにはあまりふさわしくないと言えるでしょう。
もともと少ない線で年齢を示すことは大変難しい上に、品よく美しく描写するにはかなり高度な技術を必要とします。さて、どうすればよいか?
今回は紹介しませんが、たまたまこの日一階展示室で、世田谷文学館コレクション展、「衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」が開催されており、江口寿史展を見終えた後訪れました。
そこで思ったのです。そういえば、漫画家よりはファッション画の作家の方がいろんな年代の人物を描くのではないか。事実、柳生悦子氏は通常のファッション画作家ではなく「映画衣装デザイナー」なので、様々な年代の役柄の衣装を描く中で、かなりの高齢の人物を描いています。
そしてAさんが望む異国情緒のある民族衣装も多く描いているのです。
さらに、ファッション画で思いだしました。以前、森本美由紀展(弥生美術館)の記事を書いたことを。
この中で、Rene Gruau や Austin Briggs など海外の作家と比べたことも同じく思い出しました。これらの海外作家たちも多くの年代を描いているばかりではなく、戦後の日本が憧れた欧米人の姿が描いており、Aさんに薦めるのはこちらの方かもしれません。
さて、江口寿史展にもどります。
以上、年代別の描き分けについて紹介してきましたが、顔の表情もスケッチでは気になることがあります。漫画ほどは気にする必要はありませんが、顔の表情の描き分けも時に必要になります。
顔の描写を選ぶうちに、いろんな表情の描写もありましたので参考までに紹介します。(図8)
目の見開き具合、口の形、眉毛の形、眉毛と目との間隔などを注意すればよいようです。
その1の最後に:
一通り見終わった後に、入り口にあった江口寿史氏本人の挨拶文に気づき読んでみました。
そこには、「なぜ通常の美術館やギャラリーではなく世田谷文学館なのか」という理由と共に、この展覧会では「漫画の生原稿に加えてイラストレーションも展示している」が、それらはすべて「漫画を描きながら並行して描いていた時代のイラストのみ限定している」と断り、「イラスト専業になってからの作品は一点も展示していない」と念を押したうえで、それは「今回の展示で僕自身がひとつ決めたルールでした」と熱く語っているではありませんか。
このまま帰ろうとした私に「おまえは、この展覧会を参考書代わりに見に来たのか!?」と言われたような気がして、あらためて作家本人の意図を汲むために見直すことにしたのです。結果をその2で記事にします。
(その2に続く)
美術展訪問シリーズの前回の記事を下記に示します。