「小村雪岱」展・補遺2:泉鏡花「日本橋」の装幀画は仏画の三部構図だった?
はじめに
本稿は、昨年訪問した清水三年坂美術館の「小村雪岱」展の記事の中の、小村雪岱の遠近表現に対する私の見解に対する二つ目の補足記事です。
1月4日付で投稿した補足1の記事では、小村雪岱が透視図法と日本の伝統的な遠近法をはじめて混在させたのではなく、すでに鈴木春信が西洋の遠近法を知っており、透視図法と日本の遠近表現を混在させて描いた作品があることを紹介しました。
ここでは、引き続き小村雪岱の遠近表現に関する見解の補足をいたします。
泉鏡花『日本橋』装幀における小村雪岱の遠近表現について
昨年12月31日に投稿した前述の小村雪岱展訪問記事の中で、小村雪岱の出世作である泉鏡花『日本橋』の装幀画(図1)の空間描写についてある指摘をしました。
それは、以下の指摘です。
そして、これらはすべて小村雪岱の工夫であると述べました。
しかし、補遺1で紹介した下記の著書「日本人と遠近法」(ちくま新書)の中で、著者は鈴木春信が行った西洋式遠近法と伝統的な日本の視点移動法との共存を行ったことを指摘するだけでなく、共存はその後の後期浮世絵で主流になったというのです。
そして私にとって驚きだったのは、葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》を例にとった著者の次の主張です。
ここで著者は、後期浮世絵における遠近表現の中のヨーロッパ遠近法は中国伝来の三部構図法が取り入れられているというではありませんか。
しかも、これまで何回見たかわからない、あの北斎の《神奈川沖浪裏》に対してです。私は三部構造法だと気が付きませんでした(このような指摘は他に見たことがありません)。
以下、実際の絵で確かめてみましょう。
著者は続けて次のように説明します。
確かに小舟と富士の大きさの関係は三部に分けられていると思います。
著者はもう一つの例として、歌川広重の《東海道五十三次 宮 熱田神事》を挙げます。
この絵では、三群の人物が前・中・後と次第に小さくなって配置されており、遠近法が採用されているけれども各群の間は視点が固定されておらず、広重はそれぞれの対象に視点を移しながら描いていると著者はいいます。
著者は、広重の他の二つの作品も北斎の《神奈川沖浪裏》の次に例示しているのですが、本文に説明がないので意図が分かりません。文脈からはどうやら一見ヨーロッパの遠近法のように見えて実は視点移動法を加えている例として示したかったようです。参考までに以下に示します。
はたして泉鏡花「日本橋」の装幀画は仏画の三部構図だったのか?
以上、諏訪春雄氏の主張する、後期浮世絵版画における伝統的遠近法、ヨーロッパの幾何学的線遠近法、伝統的視点移動、三つの融合の例を見てきました。
さらに、例に示された北斎、広重の作品から三部構造法で描かれていることも理解できました。
ですから、図1の泉鏡花『日本橋』の装幀画の小村雪岱が工夫したと私が思った三つの大きさの違うグループによる描写は、後期浮世絵版画に着想を得た可能性が出てきます。
しかし、改めて泉鏡花『日本橋』表表紙の絵を見てみると、この絵においては、諏訪氏が提案する「視点移動遠近法」とみるにはあまりにも意匠化されているように思うのです。
小村雪岱が後期浮世絵版画の三部構造法を把握していたかどうかは分かりませんが、「視点移動」という観点で三つのグループに分けて描写したとは思えないのですが・・。
おわりに
諏訪春雄氏の後期浮世絵版画における「伝統的遠近法、ヨーロッパの幾何学的線遠近法、伝統的視点移動、三つの融合」という見方は、諏訪氏独自の学説のようです。
一般読者向けの著書「日本人と遠近法」(ちくま新書)は、今から25年前の出版ですから、おそらくその数年前には論文が出されているはずです。
全体を通して読んだ印象ですが、諏訪氏の学説は当時まだ新しく、専門家の間では必ずしも定説化されていないのではないかと思いました。25年後の現在どの程度認知されているのか分かりません。
ただ諏訪氏の学説のベースとなる「中国伝来の三部構図法」ですが、著者が「中景を大きく、前景をそれにつぐ大きさに、遠景を小さく描く方法」と説明しておきながら、浮世絵のそれは、前景、中景、遠景の順に小さくと、中国伝来の三部構造図法とは異なる順番だとし、それは西洋の遠近法の摂取の影響だと説明しています。しかし、それならばわざわざ中国伝来の三部構造法を持ち出さなくても説明できるような気がします。
このあたりの矛盾をどのように論文で説明しているのか、学会内でもまだ決着がついていないのではないかと推測します。
(おしまい)