<赤瀬川原平の名画読本>鑑賞のポイントはどこか 赤瀬川原平 光文社(1992)その1
はじめに
新たなシリーズ「線スケッチの立場で本を読んでみた」を始めます
noteでは昨年から<手帳人物スケッチ>シリーズを始めました。絵中心の記事ですので、文章中心のシリーズも立ち上げようと思います。
noteを始める前は、「線スケッチの魅力」というタイトルで、7年間ほどブログを書いていました。その中では、読んだ本の書評もそれなりにあります。(下記)
今回立ち上げるシリーズは、以前のような書評形式ではなく、以下のような方針で書くことにいたします。
新シリーズの方針
書籍全体の書評ではなく、「線スケッチ」の制作に役立つ部分を取り上げ紹介する。
「線スケッチ」の視点で、絵画全般について、自分が知らなかった見方、あるいは著者も考えていない見方を取り上げる。
絵画における「線」に焦点を当てた表現、考察を収集する。
街歩きスケッチ(都市、郊外)に関連する書籍で、これまでスケッチした場所、今後スケッチする場所の歴史、社会、建築、都市景観の考え方、見方を取り上げる。
ですから、著者がその本で伝えたいことの全貌を紹介するのではなく、あくまで私が気に留めた部分の紹介になるので、書評とは異なります。どうかご了承ください。
それでは、さっそく表題の著書についてこのシリーズを始めます。
著者「赤瀬川原平」について
美術関係の本の著者にはいろんな経歴な方がいます。例えば、美術評論家、画家(作家)、学者、美術館の学芸員、小説家、記者などです。私の場合、これまで作家であるかないかにかかわらず、良い本は良いと手当たり次第に読んできたのですが、「線スケッチ」を描き始めて少しだけ見方が変わりました。それは何かというと、絵を描くという行為の視点で読むと、画家の文章に共感する部分が出てきたことです。
とはいえ、画家の多く(特に昔の方)は、文章表現が独特で正直分かりにくい場合があります。今回取り上げる本の著者、赤瀬川原平は路上観察学をはじめたころから著書を読んでいて、文章がわかりやすく共感するところが多い作家でした(恥ずかしいのですが、ご本人の作品は見たことがなく、画家というより作家という感じです(事実芥川賞作家ですが))。もっぱら著作しか読んでいません)。
ですから、絵画の見方も制作者の立場から書かれているのではないかと思い、この本を手に取りました。以下、共感、個人的に発見(?)した部分を取り出して書くことにします。
モネ[日傘をさす女」 ・なぜ日本人は印象派が好きなのか
最初の章でモネの「日傘をさす女」を取り上げています。下にこの絵を示します。
「印象派の絵は日本の俳句だ」という小見出しとともに感想が書き始められています。その内容は、五感で感じたものを文で表したものになっており、美術評論家や美術史家などが書く文章表現とはかなり違います。
ただし、ここで取り上げたいことはその部分ではなく、次の小見出し「印象派でゃ「光」をどう描いたか」の中で、この作品を彩色技術の視点から述べた記述です。
通常絵の具はパレット上で混色してから彩色すると濁って暗くなることが知られています。日本の浮世絵版画の明るさに驚き、それまで”やに色”だった西洋の油絵の世界を明るくすることを始めたのが印象派の画家たちです。これに関連して、著者はこの絵について次のような意見を述べています。
やはり油絵を描く立場からしか書けない文章ですね。私が描いている「線スケッチ」でも、絵の具(透明水彩)を極力混色を避けて彩色しています。
色を作るには、A色を塗った後(同じ色でも、望みの濃さになるまで、乾かしては塗るを何度も繰り返す重ね塗りをします)、乾かしてからB色を上から塗り、望むC色を作ります。すなわち、光の透過による混色なので、暗くならず、明るさを保ち鮮やかさも落ちません。
実は、生徒さんから「なぜパレット上で絵具を混ぜてはいけないのか」と尋ねられることが多いのです。ですから本を読んでいても、混色のところについ目が行ってしまい、ここでも取り上げた次第です。
このモネの絵の場合は、油絵具が生乾きのうちに他の色を塗っているため、その色が一部下の色とまじりあって筆跡が残っている状態を著者は「生っぽい」と表現しているのではないでしょうか。
以上を読んで著者はモネのこの描法が気に食わないのかと思っていると、上の引用文のあとスーラやシニャックの点描技法の説明に至り、以下の記述に移ります。
気に食わないと読者には思わせて、近くで見ると絵具を塗るタッチが気に障るけれど離れてみるとそうではない。目的は達していると結論づけています。
「目的は達している」ということは、あきらかに画家が意図した全く新しい彩色技術という意味になり、印象派の絵画を初めて見た批評家や一般市民が認め難かったのも無理からぬことです。
次に最後の見出し「絵では「リアル」をどう出すか」の中で以下の文が目を引きました。
実は引用した文章の前に、著者はこの絵の中で、傘の芯棒が、頭の後ろの部分が欠けていることに気づいて、描き忘れたのか、手から肩までの芯棒を描きその先はあえて描かない手法を取ったのか、二つの可能性をあげて、最終的に「モネは、単純にこの傘の芯棒を描き忘れたんだと思う」としています。
すなわち、光を描くのに夢中で芯棒を描き忘れたのだと。モネの夢中の様子は、上で引用した通りです。
理屈ではなく、気持ちや勢い、すなわち夢中になることで理屈を無くすことが出来るという見方は、絵を描く立場から共感できる部分です。
実際、「線スケッチ」教室の生徒さんが必ずと言っていいほど持つ共通の心理があります。それは「正確に描きたい」、「間違いたくない」という心理です。「線スケッチ」では、「正確な線を引きたい」「正確な輪郭線を引きたい」となるわけですが、写真を見慣れた現代人としては、確かにそのような心理になるのも無理はありません。
これに対して私は
「優先してほしいのは、形を正確に描くことではなく、描く対象に感動した気持ちを線にのせてほしい。下書きなしに描くのだから間違って線を引くのはいくらでも起こる。人はロボットではないので間違いは避けられないが、それを上回る線描の勢いや表情があれば、見る人は作者の気持ちを感じ取り、間違いがあっても気にしない」
と話しているのですが、なかなかその心理から抜け出せないようです。
芯棒を描き忘れたこのモネの絵を見せるのも一つの解決法になるかもしれません。
さて、著者の語り口に惹かれて、この絵をよく見ると、日ごろ教室で必ずと言って質問を受ける陰影の塗り方についても多くの示唆が得られます。
その質問とは「陰影は黒(灰色)を塗ればよいのですか」です。もちろん、最初に
「確かに暗いので黒や灰色を塗るのは構わないが、せっかく重ね塗りで明るく彩色したのに、絵全体を暗くすることになる。実際は何色を塗ってもよい。暗い=黒ではなく、同系色を濃くしたり、印象派の絵のように青紫や地面や机に反射している色を使ったほうが明るい絵にすることができる」
と実例を示して説明しているのですが、いざ自分の作品に陰影をつけるときは、黒(灰)色以外の色は怖くて、つい黒(灰)色を塗ってしまうようです。
この絵では陰影はどうなっているでしょうか。あくまで私が観察した範囲ですが以下のようになります。
草むらの部分および顔、腕は同系色の濃さの変化で(茶色、緑)。
白い服装の陰は茶色メインと薄い青紫で(茶色はおそらく草むらの茶の反射)。
雲の陰は薄い赤紫、青紫で。
首の後ろから胸元までの髪の毛(スカーフかもしれません)は青緑で。
スカーフと胸元は青色で。
日傘の裏側は濃い緑で。
付け加えればどこにも黒は使用されていません。
以上の中で、とても驚いたのは、日傘の裏を濃い緑色で陰を表現していることです。人によっては、緑は陰ではなく裏地の色だと言われるかもしれません。しかし、日傘の中心部分が黄土色(ベージュ?)で、緑の部分にもうっすらとこの色が見え隠れしていることから、裏地は緑ではなく黄土色(ベージュ?)で、やはり緑が陰を表していると思います。
それにしても、大胆な色使いです。左下の濃い緑と呼応させたのでしょうか。陰影の色使いとしてこの絵を引き合いに出せば、かなりインパクトがあることでしょう。
次回<その2>に続きます。
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