作家と恋をするということは。
古今東西、どんな人とでも恋愛関係になれるとするならば、私は絶対「開高健」がいい。
氏の書く文章の醸し出す得も言われぬ雰囲気と、ウィットに富んだ内容、ユーモアのセンス、すべてが好きだ。
しゃべり方も好きだ。唯一無二なハイトーンボイスも好きだ。
見た目も好きだ。
なによりも、氏の小説を初めて読んだときの、痺れるような感覚が忘れられない。言葉のひとつひとつが、雨粒のように私の中に浸み込んでいくようで。読み進めていくうちに、もう、彼は私の血液になった。
ああ、もう一生引きはがすことなんてできない。
そう感じた。
若いころから、私が夢中になるのはいつも作家である。
憧れの職業だからというのもあるけれど、彼らの著作を読んでいるときの、魂の共振のような感覚、あ、この人だったらきっと私を解ってくれるにちがいないという感覚が、私を陶酔させるのだ。
『嵐が丘』で、ヒロインのキャサリンが宣う有名なセリフ、
「私は、ヒースクリフです!」
これを実感することができるのは、アイドルでも、俳優でも、クラスメイトでもなく、作家以外にありえない。
しかし。
もし実際に作家と恋に落ちることができたとしたらどうなるのだろう。
一方的に作品を読んで妄想しているのとは勝手がちがう。
言葉だけの世界に、肉体が割り込んできたらどうなるのか?
『あなたの迷宮のなかへ カフカへの失われた愛の手紙』
(マリ=フィリップ・ジョンシュレー著 松村潔 訳 新潮社)
を読むかぎりだと、それは地獄の始まりのように思える。
これは、カフカとその恋人ミレナとの間に交わされた手紙をもとに描かれた書簡小説である。
カフカがミレナに送ったものは本になってさえいるけれど、ミレナがカフカに送ったものは現存しない。この作品は、失われたミレナの手紙を再現してみせてくれる。
ミレナとカフカの馴れ初めは、言葉だった。
文芸カフェで出会い、カフカの作品を読んだミレナは瞬時に魅了された。
カフカの作品を読む時、「わたしは抱き締められ、理解されていると感じています。だからこそ、わたしはあなたを翻訳したい、もっと翻訳したいと思うのです。」
そうして、カフカの作品をチェコ語に翻訳するためにミレナに送るという文通が始まる。
翻訳をするのだから、読むだけよりも数段深く作品世界に入っていくことになるのだろう。
ミレナの手紙はかなり激しい。
正直、こんな手紙をもらってカフカはどう思ったのだろう。
私だったら怖くて逃げたくなってしまうけれど。
カフカにとって、書くことが生きることであり、生きるために書かねばならなかった。言葉だけが、彼の世界のすべてだった。
ミレナもそれを解っていた。最初は、言葉を愛するだけでよかった。
けれど、関係が長引くにつれ、彼女は言葉だけでは満足できないようになる。
言葉という仮想空間に生きるカフカと、血の通った肉体を持つミレナ。
互いの世界が徐々に歪み、相容れないものになっていく。
一体、ミレナが愛しているのは何なのか?
カフカの紡ぐ言葉? それとも、フランツ・カフカという一人の男性?
そもそも、愛するって何? 愛するってどういうことを指すの?
手紙というものは、自分自身の心の投影でもある。
書きながら、相手を想うと同時に自分自身をも想っている。
文通が続く過程で、ミレナが自分を見失っていく様子が痛々しい。
ああ、作家と恋に落ちるということは、なんと難しいのだろう。
作品は作家の一部であって、彼のすべてではない。
彼の生み出した言葉をいくら愛したからといって、彼のすべてを愛せるわけではないし、彼のすべてを理解できるわけでもない。
ましてや一体化するなんて、できるわけがない。
彼も、私も、現実を生きているのだから。
そう考えると、開高健と恋仲になれなくて良かった。
私はこれまでも、そしてこれからも、ただ盲目的に彼の言葉に溺れていられればそれで幸せなのだ。
来世でも、作家と一読者としての関係で。
それ以上は望みません。