お酒の味
渋谷での路上呑みが禁止されたことに、私は少しガッカリしている。
死ぬまでにやりたいことリストに入れていたのだ、実は。
路上でお酒を呑む。
ただそれだけのために、はるばる海を越えて、多くの外国人が渋谷に押し寄せる。
いくら円安とはいえ、自国の酒場でビールをあおるのに比べたら、とんでもなく高くつくはずである。
それなのに、だ。
時間とお金と労力をかけてでも、体験してみたい!!!
そう思わせるものが、路上呑みにはあるということだ。
世界中の人々を魅了して止まない路上呑み。
せっかく日本に生まれたからには、ぜひ、やってみなければ!!!
ということで、去年のハロウィンあたりから、私はお酒の訓練を始めた。
私はもともとお酒が強くない。
というか、味が苦手である。
ビールは苦いだけだし、日本酒は後に残る妙な甘さがいただけない。
辛口も飲んでみたが、水みたいにサラッとしているのに鼻に抜ける独特の香りがツライ。
ワインの渋味、酸味を美味いとは思えず。
カクテルのいくつかも、ジュースの奥から主張してくるアルコール臭が、注射の消毒液を髣髴とさせてゾッとする。
ウイスキーはまあまあだが、味わう前に意識が飛ぶ。
しかし、それは味覚がお子様なだけであって、修練しさえすれば、必ず世の人々と同じく「か~っ、この一杯のために生きてるぅ~!!」みたいな境地に至れるはずなのだ。
子どものころ苦手だったコーヒーが、今では大好物であるように。
ところが。
一年経ってもまだお酒の美味さが見えてこない。
なぜなのか。
私の舌がバカだからなのか。
もしや「美味い」を取り違えているのだろうか?
きちんと嗜み方を勉強しなければ理解できないものなのかもしれない。
そこで、今回読んでみたのが
『作家と酒』(平凡社編集部 編 開高健、吉田健一、赤塚不二夫、中上健次、さくらももこ、内田百閒 ほか著)
作家には、酒好きが多いように思う。
そのなかでも選りすぐりの「お酒好き」たちによる、お酒愛溢れるエッセイ集だ。
お酒へのラブレター、と言えるかもしれない。
お酒の美味しさを、しびれる文句で教え諭してくれるのだろう。
読み終わるころには、私はすっかりお酒の魅力にとりつかれているはずだ。
けれど、そう簡単に理解できるほど、お酒の道は甘くなかった。
彼らが酒を呑む理由は、味ではなかった。
酒を求めているのは、舌ではなくて、心だった。
あるものは「酔いたいから」。
あるものは「虚しさを埋めたいから」。
あるものは「今を忘れたいから」。
私は、疲れて帰ってきた夜には必ずコーヒーを飲む。
その日あったイヤなことを少し忘れられるから。
あの香りを嗅ぐだけで、心がほぐれる気がする。
お酒は、コーヒーよりもっとずっと深いところに作用するようだ。
一日ぶんではなく、これまでの人生まるっと全部。
自分のこれまでの生き方を、まるっと包み込んでしまうような深淵。
作家の言葉から見えてくるお酒は、そういう深さがある。
人生を圧縮機にかけて搾り取った液体であるかのよう。
そんなものを、サラッと飲んだら罰があたる。
あー、だからお酒は「ちびちび」だったり「しみじみ」だったり「じっくり」だったり、時間をかけて飲むのだな。
そして、人生と同じように、美味いも不味いも、酸いも甘いも受け入れて、ただ飲み干せばいいのだ。
お酒の尊さを知ってしまうと、路上吞みなんて恐れ多くて、しようとは思えなくなった。
40を越えた私の呑む酒は、渋谷の路上では決してない。
自分の家でひとり、来し方行く末に想いを馳せながら、ゆっくり呑むのがいい。
さて、修練用に買った「鶴齢」を、どうやって飲み干そうかな。