『惑う星』にとまどっている。
これは、読む迷路である。
読めば読むほど思考の袋小路に追いやられる。
くそう、リチャード・パワーズめ。してやられた。
読んでしまったからには、これからずっと「人間とは?」という哲学みたいな問題を抱えて行かなくてはならんではないか。
責任とってよ。
リチャード・パワーズは、現代アメリカを代表するポストモダン作家である。
本書の作者紹介には「現代アメリカにおける最も知的で野心的な作家のひとり」とある。
そうなのだ。氏の書く小説は一筋縄ではいかないのである。
これまで私が読んだのは『舞踏会に向かう三人の農夫』と『幸福の遺伝子』の二つの長編だけだが、どちらもストーリーを説明するのが難しい。
めまいを起こしそうになるのが唯一の共通点かもしれない。
読んでいると、自分の中の「既成概念」が激しく揺さぶられるのである。
(ただ、それがクセになるのだが)
濃厚で、芳醇で、生きながらにしてすでに古典。陳腐だけれど、そんな作家だと私は思っている。
なので、『惑う星』(リチャード・パワーズ著 木原善彦訳 新潮社)のとっかかりには驚いた。
まるでエンタメ小説のような、ライトで簡素な書き出しであった。
これは本当にリチャード・パワーズなの?と何度も表紙を確認してしまった。
ストーリーはといえば、『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)の現代版といったところだろうか。
主人公シーオの息子ロビンには、発達障害の兆候が見られる。人と上手にコミュニケーションをとることができない彼は、たびたび学校で問題を起こす。9歳にして小学校から退学勧告をくらうほどだ。
ほとほと手を焼いたシーオは、2年前に事故死した妻アリッサ(ロビンの母親)の脳派をロビンに移植(というとちょっと違うんだが、難しいのであえてそう書かせていただく)することで、息子を救おうと考える。
実験は大成功。ロビンは日に日に協調性と社交性にあふれたアリッサのようになっていく。
人と見れば噛みつき、暴言を吐き、孤立していたロビンが、みんなの人気者になっていく姿を「ああ、よかったねえ」と暖かく見守るだけで終わらせてくれたらよかったのに。
読み進めていると、そんなロビンの姿に不安と居心地の悪さを覚えるのである。それは、シーオがロビンに話して聞かせる「地球とは全く違う環境の惑星」のせいだ。この挿話が物語の合間に何度も登場する。
他の惑星では、地球とは意思疎通の仕方が全く違う。
その惑星から地球に向けて、何度も何度もメッセージが送られてきているのだが、それがメッセージであることに気付かない。
周波数の合わないラジオのように、地球はそれを受け取ることができない。
意思疎通の方法は、惑星の数だけある。どちらか一方の方法を押し付けることはできない。
これは、人間関係の暗喩ではなかろうか。
人の数だけ意思疎通の仕方がある。感じ方がある。考え方がある。
みんなが同じように感じているに違いない、という推測のもとで社会はなりたっているわけだが、みんながみんな同じではないのだ。
この物語はシーオの一人称で描かれているため、ロビンが何を考えているのかはわからない。だからこそ読んでいて不安になるのだ。
ロビン本人は、アリッサになっていく自分をどう思っているのだろう。
それって、本当のロビンを少しずつ消していくことなのではないのだろうか。
社会と繋がるために、本当のロビンは消滅すべきなのだろうか?
『惑う星』は、わからないことだらけだ。
出てくる人間はシーオと、ロビンと、アリッサの家族3人くらいなのに、それぞれが謎のかたまりである。
ロビンの思考回路はずっと謎だし、回想でしかないアリッサはさらに謎である。
読みながらつい、口走ってしまう。
「あなたは一体何を考えているの?」と。
そして、ハッとする。
今日、これとまるきり同じことを考えていたではないか。
職場の先輩に。メールの返信がない友だちに。隣で寝ている愛猫に。
たとえどんなに親しい間柄であっても、心の内を知り尽くすことはできない。私も、あなたも、別の「惑星」なのだから。
でも、だからこそ探りたい。探りあてたい。そして通じ合いたい。
が、こうも思うのである。
もし、私がロビンと同じ方法で「コミュ障」が治せるとしたらどうだろうかと。
多様性が叫ばれるようになって久しいけれども、それはやっぱり「建前」で、現実は厳しい。多数派と違う考え方や感じ方は、孤立を招くことになる。その「変わった考え方」のクセを修正して、普通の、いやそれ以上の「コミュニケーションの達人」になれたとしたら?
うん、やる。必ずやるだろう。
むしろ元の「コミュ障の私」は消滅しても構わない。というか、消えろ。
しかし「コミュ障」とは何だろう。
もし森の中でたった一人暮らしていけるのだとしたら、誰ともかかわらないのだから「コミュ障」だって全然かまわないわけである。
社会的規範というものがあるからこそ「私ってコミュ障なんだなあ」と傷つくのであって、本当は一人で行動するのが好きなのに、社会的規範から外れた自分がなんとなく恥ずかしいので「コミュ障っていやだな」と思っているだけではないか? 本来の自分より、社会的規範を優先してないか?
物語の中のロビンも、しばらく人里離れた山小屋で生活をする。
そこでの彼は悩みなど無用のように生き生きしているのである。
ううむ、なんなんだこれは。
卵が先かニワトリが先か、みたいな難題になってきたぞ。
個人が先か、社会が先か。
人間は、自分の幸せを求めるべきなのか。それとも社会の、世界の幸せを願うべきなのか。(途中でグレタ・トゥーンベリらしき環境活動家が登場したりするので、余計に考えさせられてしまう)
ああ、落ち着かない。そわそわする。
読み返しても答えはない。読めば読むほど『惑う星』。
まったく、リチャード・パワーズは意地悪な作家である。