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スナップ写真のように。

時々、子どものころの写真を見返してみる。
なにかの記念に撮った、かしこまった写真ではなく、「写ルンです」でいたずらに撮った、なんでもない日のスナップ写真。

庭にしゃがみこんで、土だかなんだかをこねくり回している3歳くらいの私。
畳に寝転がったまま、ガリガリ君を頬張っている7歳くらいの私。
祖母の家の台所から撮ったと思しき、木蓮の幹だけが映ってる写真。
どこかの山。
ただの青空。
りんごの包装紙だけが映ってるのもある。

そんな、日常のきれはしみたいな写真を前に、私は切り取られたその日の、写真の外側を想像してみるのだ。

あの日は、近所のたろちゃんが遊びに来ていた?
ああ、もしかして近くの藪に入って蚊に何十か所も刺されたあと?
茨木のリカちゃん家に遊びに行ったとき、途中で休憩した場所?

それは想像というより、創造かもしれない。
だって、いくら思い出そうとしても、なんでもないその日の細部なんて覚えていないもの。
もしかしたらそうかもしれないし、全然違うかもしれない。
何十年も経た今となっては、答えは永遠にわからない。

だからこそ私は、スナップ写真を眺めるのが好きだ。
その背景にある空白が好きだ。
正解がないから、見るときどきによって好き勝手に物語を紡ぐことができる。嫌な記憶がチラと浮かぶようなものだって、新たなお話を創って塗り替えてしまえばいい。
万華鏡のように。

『小さくも重要ないくつもの場面』(シルヴィー・ジェルマン著 岩坂悦子 訳 白水社)は、そんなスナップ写真のような作品だ。
短い章で綴られる、主人公リリ・バルバラの人生。
タイトルが示すとおり、それは小さくも重要ないくつもの場面で構成されていて、小説というよりは情景描写の連なりのようである。
心理描写はほとんどない。
リリの人生を描いているけれど、三人称だし、俯瞰的で、どこか他人事のよう。

彼女の人生を要約してしまうと、苦難の連続だ。
記憶にも残らないほど幼いころに母親が失踪。父親の再婚相手(元モデルの美女)と、その連れ子たちとの生活。
ある事件をきっかけに、バラバラになる家族の心・・・。
ドラマチックにしようと思えば、どこまでもドラマチックにできそうな物語を、作者は淡々と描写する。

与えられた場面のひとつひとつを、じっくり眺めまわして、読者である私はリリ・バルバラの心の内を想像する。
異母兄弟たちの心の内も想像する。
彼らの住居、そこに貼られた壁紙の色だったり、染みついた生活臭だったり、廊下のきしむ音だったりも想像する。

そうして読んでいると、主人公の心の内を描いていないからこその良さが見えてくる。
スナップ写真のようだからこそ、読んだ人それぞれの「リリ・バルバラ」の人生があるのだ。
空白が多いからこそ、読者それぞれが自由に色を塗ることができるのだ。

もし、この作品を5年後、10年後に読み返す日が来たとしたら。
きっと、今思い描いているリリ・バルバラとは違う姿が見えるだろう。
そのとき私は、彼女の人生をどう創造するんだろう。
いつか再読するその日まで、本棚の奥にそっとしまい込む。
昔、「写ルンです」で撮ったスナップ写真と同じように。





最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。