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子どもが育つ学級をつくる「仕掛け」の技術

いろいろな学級を見せていただく機会がある。それぞれの授業や学級経営の中に、担任の先生方の工夫が見られる。主体的・対話的で深い学びと言われてから、教師の意識にどれくらいの変化があったかは定かではないけれど、それでもまだまだ教室は教師が一斉でコントロールしていくという形を握っていることが多いような実感がある。

「教師のいらない授業のつくり方」が一躍大ヒットした若松先生だけれど、その1年後、そこからさらに具体に寄せていったのがこの本なのだと思う。

この「仕掛け」という言葉について、若松先生は

今回、あえて「仕掛け」と書いているのは、「教師が目立たない支援や指導」を意識できるようにするためです。子どもたちの自律性や協働性を育てるためには、教師が目立ってはいけません。子どもたち自身が、自分たちでできるようになることを増やしていくためにできる支援や指導が本書における「仕掛け」となります。

P11

と、かなり丁寧に「仕掛け」という言葉を使った理由について説明している。
「教師のいらない授業」もおそらく相当に、その言葉の強さから「いらない」に着目されたんだろうなと推察する。そこに対して、タネも仕掛けもなく不意に教師がいらなくなるのではなく、「丁寧な計画性と仕掛けのもとに、教師がそれこそ意図的にいなくなるような、いなくなっても自律的・協働的に学べる授業や学級集団であることが重要ですよね」というメッセージを伝えたいんだろうなと思う。そして、この考え方にすごく共感する。

数えはしなかったけれど、この本には「見る」や「観察する」、「目を向ける」という言葉が繰り返し出てくる。児童の実態から出発することに重きを置いていることがよく分かる。
ここからは完全に想像上の話だけれど、若松先生の本を次から次へと読んでいる多くの読者の方が「そうはいうものの、じゃあ一体何を見たらいいんですか?」みたいな質問へのアンサーとして「見取りの技術」も発売されたんじゃないかなと思う。

方法論として引き出しを持っておくことも、どのようにを知りたくなる気持ちもすごくよく分かる。でも結局は、同じ方法を用いてもできることは違うだろうし、それは同じ方法になっているのかも実は怪しい。

技や方法を大切にしながらも、自分には何が適しているのか、学級でどんなことができるのか、若松先生がよく口にしている、結局は自分の頭で問いをもって考え続けていくことしかないんだろうな。

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