「拘禁されている方が、自由であるよりも安全なこともあるさ」_"The Trial"(1962)。
オーソン・ウェルズが監督・脚色を行ったカフカ原作による『審判』(一九六二)より。
映画においてはアンソニー・パーキンス演じる会社員の青年Kがある朝突然、自宅捜査に遭い、どんな罪を犯したかも言われずにKは裁判にかけられる。数々の不条理を一通り強いられた挙句、Kは銃殺される。
こうあらすじを書くと、みんな大好き「1984年」のような超監視社会を描いているように思われるだろうが、そこはカフカ。
原作では「機能不全を越えてあらゆるもの同士が無機質に断ち切られているために不条理を強いられる、どこか可笑しい社会」が、冗長でまどろっこしく平気で同じ言葉を繰り返す先の進まない会話の中に、くどくどと描写されている。
Kもどこか阿Qよろしくノンビリしていて、楽天的で、裁判以外にもTo Doが多すぎててんてこ舞い。話はわき道にそれまくった挙句、明確に刑罰の程度が決まったわけでもない(そもそも原作において裁判官からは「死刑」の一言も出ていない)のに、Kは31歳の誕生日の前夜に突然処刑人によって処刑される、
カフカが存命中に未完で終わったこともあって、奇妙としか言えない破綻一歩手前、分裂寸前の物語なのだ。
滑稽なこの小説を、オーソン・ウェルズは映画化において「不安」「深刻さ」の一色で塗りつぶした。すなわち、原作において「追いつめられているのか追いつめられていないのかよくわからない、ふわふわした」Kは、映画においてはフィルム・ノワールよろしく明確に「追われる男」として描写される。
自然、Kを取り巻く美術は、ドイツ表現主義よろしく整然としながらどこか歪んだ空間として設計されている。
たとえば、
原作にはないタイプライターを一心に打つ従業員の机、机、机。その間を荷物を持って通り過ぎていくK。タイプ音だけが不気味に響く。
そしてタイプライターの空間は奥にどこまでも続いている様に見える、Kが働く銀行の一シーンなど、その骨頂だろう。
その他の建物の内部も異様に深く、奥へ奥へと続いている印象があり、銀行の扉を出ると廊下の奥に裁判所が続いていたりと、建物同士の接続は不可思議。
ジャンヌ・モロー扮する隣に住む踊り子、ハスラー邸の看護婦、親戚の少女、番人の妻、と、登場人物も気まぐれで、主人公の人生のテリトリーに入り込んでくるようで、結局一歩も踏み入れることはない。
刑事に逮捕され迎えた最初の審理では、必死に弁明するも、陪審員の多数はまるで話を聞いていない。笑うか、別の何者かを見ているのみ。「曖昧模糊とした言説で」「己の正当性」を主張する主人公に対し「同じく曖昧模糊とした言説で」「有罪を告げようとする」裁判官は最後まで平行線の議論。
しかし、なぜかKに対する拘束はなく、裁判では全ての人がさくらのように仕込まれているようで、弁明をあきらめた彼はそこから逃げ出してしまう。それに対するお咎めもない。
このように、Kは「無機質に断ち切られている」社会の中を自由に、しかし深刻に行き来する。オーソン・ウェルズ扮する弁護士ハスラーを叔父に紹介されると、さらにその傾向は加速する。
話術の天才:ウェルズらしい弁護士の話ぶりは
のような、詭弁的な響きと、二転三転していくような曖昧さと、話を進めるにつれて徐々に加速する深刻さを帯びている。
歪んだ構図の中での二人の弁論は、さしものKをも最終的に苛立たせ、反撥させる結果を呼び起こす。
結局、最後は2人の処刑人に抱えられるように荒野を連れ回され、処刑の日を迎える。
本記事を締めくくるにあたって、この結末部分の差異を明記する。オーソン・ウェルズによるこの改変が何を意味するかは、ぜひ皆さんで考えてほしい。
Kは郊外の石切り場に連れて行かれる。Kは体を固定され、処刑人2人が「どちらが彼を殺すか」ナイフの押し付け合いを行うまでは、同じ。