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「観客」が人を愚かにする(「オンラインイベント症候群」と「X中毒政治家問題」)

今日は「議論」の方法について考えてみたい。これも先日の渋谷ヒカリエでの年忘れイベントで話題に出たことなのだが、僕は「オンラインイベント症候群」ともいうべき問題が今日の言論空間には発生していると思う。まあ、これは実空間での対面イベントでも、SNSのタイムラインとの対話でも起こる現象なので、あまりこの名称がふさわしいとは思わないのだけど、オンラインイベントで特に発生しやすいので、こう名付けている。

渋谷ヒカリエのでの年忘れトークイベントの模様。

具体的にはこういう現象だ。たとえばある言論人が討論を生配信しているとする。そのプラットフォームには、どちらかといえば右(左)派よりの人が多く集まっているとする。あくまで「どちらかと言えば」くらいだ。登壇者は客の受けを取りたくて、無意識に右(左)よりの発言をする。すると観客が沸く。観客もチャット欄のコメントを登壇者に拾ってほしくて、同じ方向の意見を述べる。すると登壇者も気を良くして、ますます同じ方向の発言をするようになる。こうして、どんどん議論の内容が一定の方向に傾いていき、表現もお互い(登壇者もコメント欄も)過激化していく。そしていつの間にか「そういう場所」になってしまい「空気の支配」が完成する。特にこの空気を主導しているその場のボスの意見に誰も逆らえなくなる。登壇者にボスとその取り巻き(腰巾着)の関係性があると特にこの傾向が強まる。

そして困ったことに人間は自分が吐いた言葉に洗脳されるので、気がついたらみんなおかしくなっている。過激化するポリコレに危惧を抱いていた……くらいの人がいつの間にかリベラル派を叩いてコンプレックス層の受けを取る冷笑ガス抜きビジネスマシーンになっていたり、歴史修正主義や差別に人並みに嫌悪を示していただけのはずの人が敵視する文化人や起業家のことは平気で誹謗中傷するようになっていたりするのだ。

これはどう考えても、匿名性の高い不特定多数の観客とのコミュニケーションが生む強力な自己洗脳の効果と、アイデンティティの政治×情報技術の悪魔合体がカネと票になりすぎる問題とが混じり合っった結果で、いわゆる「社会の分断」の主要因の一つだろう。

では、どうするか。

僕の結論は、イベントの最中は一回観客と「距離を置く」ことだ。誤解しないでほしいが、僕は観客が不要だとか、対話が不要だとは一切考えていない(それ自体は重要に決まっている)。

しかし明らかにオンラインイベントのコメント欄やXのタイムラインでの読者とのやりとりを通じて、自分で自分を洗脳しておかしくなっている人が多すぎると思うので、積極的にバランスを取る工夫がいると思うのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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