〈マタギドライヴ〉は(すでに訪れている)中動態の世界に何をもたらすか
今朝は落合陽一『マタギドライヴ』出版に向けてのミーティングをしていたのだけど、そこで考えたことを書いてみたい。今日は割と出版に向けた図版や注釈についての相談をしていたのだけど、そこで落合さんが改めて強調していたのが、デジタルネイチャー下における「狩猟採集」性の問題だ。曰く、人間が機械と「一緒に」事物を生産する現代に対し、デジタルネイチャー化の進行した世界では人間が機械によって生成された膨大な事物から「選ぶ」時代にシフトする……ということだった。このシンギュラリティ観の是非はさておいて、ここで僕が考えたいのは、現代のそれよりも受動的な「人間」像のことだ。
僕は『遅いインターネット』から『庭の話』まで、人間が「発信する」ことの中毒になっていることの問題を取り上げた。多くの人々は、他のユーザーから自分の発信が「承認」されることのコストパフォーマンスの良さを知り、その中毒になる。そのため、承認を得ることを「目的」にした投稿が反復される(例えば「◯◯さんの嫌いな宇野をディスっておきました、リポストよろしく願いします!」と言わんばかりの卑しい投稿を繰り返す)。このように承認の獲得が優先されると、同時に「敵」「味方」の峻別が優先され発信の内容(正確さや論理性)は問われなくなり、最終的には陰謀論やフェイクニュースも是とされるのだが、これはまた別の話だ。
僕がここで注目したいのは、人間が自分の「活動」によって、世界に対する手触りを得ることを必要とする生き物である、という前提がここにあることだ。そのため経済的、社会的に実績のない人間(あったとしても、それに対する評価とプライドが釣り合わない人間)ほど、「発信」の快楽の中毒になる。しかし、前述の『マタギドライヴ』的世界では、この前提にメスが入る……と落合陽一は主張しているように思えたからだ。
つまり、人間は今日において何かしらの能動的な活動を通じて、世界に対する手触りを確認している。しかし、『マタギドライヴ』的世界では、人間は世界から溢れ出してくる(襲ってくる)事物を「選ぶ」ことになる。これは、昨年夏の秋田への取材旅行で若いマタギたちが現地で用いられる「授かる」という言葉に注目していたこととも結びつくだろう。
これは『庭の話』で取り上げた國分功一郎『中動態の世界』論の問題に関わっている。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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