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「アジテーション」でも「考察」でもない「批評」の楽しさをどう、伝えるか

昨日、成馬零一さん、三宅香帆さんと映画『ラストマイル』についての座談会を収録した。動画は明日にでも公開になるはずだが、そこで後半、話題になったのはいま、「批評」が流通しなくなっていることの問題だ。

「批評」とは、特定の政治思想に作品内の表現が合致しているか否かでジャッジするものではない。それはただの「アジテーション」だ。そして、パズルを解くように作者の用意した設定や伏線を読み解き、「正解」の解釈に、まるでパズルを解くようにたどり着く「考察」でもない。表現を通じて、僕たち受け手の中に発生した変化を言葉にすることで、思考を広げる作品との「対話」なのだ。しかし残念ながら今日の情報環境下では、圧倒的に「アジテーション」と「考察」が支持を受け、「批評」は後退している。もちろん、僕たちの努力不足もその遠因だろう。そこは素直に反省したい。しかし、それ以上に情報環境の影響が大きいのも明らかだ。

今日のSNSプラットフォーム上では、すでに支配力のある文脈に即して(つまり「タイムラインの潮目を読み」)、誰か(叩いてもいい相手)に「ダメ出し」することの「コスパ」が良すぎる。頭が良くなく考える力が弱い人でも、その「界隈」で「叩いてもいい」相手を既存の文脈を踏襲して「攻撃」することが、もっとも低い能力と労力で承認を獲得する方法だからだ。水は低いところに流れる。そのため、能力のない(ことを半ば自覚しているためにガツガツした)人間ほど、こうした卑しいコミュニケーションに手を染める。その影響は明らかに文化批評にも現れていて、そのために前述のアジテーションのような「批評」が幅を利かせている。なぜならば、アジテーションにおいてもっとも「コスパのよい」ことは「敵」として既に認定されて「安心して叩くことのできる」相手を叩くくとだからだ。そのため、作品を読み解く力がなくとも、部分的な描写をポリコレ的に叩けそうかどうかのジャッジならなんとかできるレベルの人たちちが、この種のアジテーションに殺到している。

しかし厄介なのは、作品をある政治的な問題の「正しさ」だけで切るのは愚かな行為でも、実際にその「正しさ」を主張しないと救われない人々が現存することは間違いないことだ。これは絶対に忘れてはいけないことで、女性差別、外国人差別など、まあ、あげればきりがない。そして現実問題として「ポリコレ」批判は反動的な差別主義者の隠れ蓑としてすっかり定着してしまっている。ここに結果的に加担してしまうのは最悪だ。だから、僕たちはこの種の反動には一切与することなく、つまり「ポリコレ」批判というかたちを取らず、あくまでアジテーション「ではない」批評の素晴らしさを主張していくことが重要だと思う。

もちろん、「ポリコレ」とかまったく関係なく、単に党派的な批評もどきのゴミみたいな文章も存在する。界隈のボスである◯◯さんに好意的に紹介されたくて、その◯◯さんの首長を丸々援用して、彼が嫌う「敵」を叩くような「批評文」とか、そそれこそnoteあたりに溢れているが、そういう書き手は自分で「私はバカです」「自分で考える力がないです」と宣言しているようなものだろう。そういうワナビーをしっかり軽蔑して、ちゃんと考えてくれる読者をどう獲得するかもまた、今後の批評の課題でもあると思う。

要するにもう10年以上前からプライドと知力が釣り合わない(特に若い男性の)読者の「イキリ」の素材として批評は消費されていて、業界も彼らを固定読者としていい感じに利用してきてしまったツケをいま、払っているように思うのだ。ここについては大きな読者の入れ替えが、10年単位で必要だと思う。

ただ「考察」については若干事情が異なっているように思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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