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「要するにカネでしょ」と考えるとSNSポピュリズムの問題は見えなくなる

さて、今日は改めて『庭の話』でも取り上げた現代のインターネット・ポピュリズムの問題について考えてみたい。

現代において情報技術とアイデンティティの政治の掛け算により、これまでとは異なったかたちのポピュリズムが急速拡大している……という話は、このnoteを読んでいる読者なら把握しているはずだ。悲しいことだけれど、現代社会においてもっとも「コストパフォーマンスの良い」承認欲求の充足の方法はSNS上で「界隈」の「敵」を貶める投稿をすることだ。もちろん、そこで得られる承認は僅かなものだが、この投稿にはほとんどコストがかからないために、暇さえあれば永遠に繰り返すことができる。もっと言ってしまえば「知力」も要らない。本や記事が読めなくても、人間関係(タイムラインの潮目)さえ読めればいいので、バカでもできる。

特にこうした承認欲求獲得のゲームの素材として手軽なのが「政治」であることはもはや疑いようはないだろう。この前提は世界中の政治家や言論人や広告業者にすでに共有されていて、マーケティングの「基本」にすらなりつつある。

では、どうしたらいいのか?
僕なりの解答はこの『庭の話』に書いたので、そちらを読んで欲しい。

で、今日はその上で、「それって要するにカネの問題でしょ」という言説にものを申したい。つまり、要するにすべての原因は経済的な格差で、ここが埋まれば人間が承認欲求ゾンビからの政治中毒のコースにはいかないのではないか、と考える人が多いからだ。僕はこの考えには「半分だけ」賛成だ。経済的な不安や格差の「実感」は、その埋め合わせとしての「政治化」をもたらす。これは中学生にもわかる論理で、特に否定したいとも思わない。ただ、僕はこの厄介さは「カネの問題」で片付かないところにあると思う。

たとえば、かつて問題化されていた「NewsPicksおじさん」問題や、最近だと大きな選挙のたびに「だからリベラルはダメなんだよ」と後出しジャンケンで自分を賢く見せる「冷笑系」の人たちには、ある程度経済的に成功した中級以上の会社員や中小企業の経営者が、それなりに混じっているはずだからだ。日本維新の会などの改革派ポピュリズム勢力の支持者が、自分を「勝ち組」「強い側」「賢い側」に置きたいコンプレックス層だけでなく、実際に社会的にある程度成功してきたからこそ、「がんばってきた自分を誇りたい」「まあまあ強い側にいる自分を誇りたい」という、まあ、端的に言って醜い動機から「自己責任社会で何が悪いの?」を開き直ってナルシシズムに浸る……というどうしようもない場面はSNS普及以前から珍しくなかったはずだからだ。

つまり経済的困窮による不安から政治化するルートだけでなく、「成功した自分」を誇りたい層や、まあまあ成功しているはずだと自分にいい聞かせたい層もいわゆる「冷笑系」として、自分を「強く見える側」に置いて、後出しジャンケン的に「現実分かっているオレ」アピールをするケースも、同じように今日の「アイデンティティの政治」の日本における展開では大きな原動力になっていることは明らかだからだ。要するに「すべてがカネの問題」ではないのだ。

考えてみれば、2016年にトランプが最初の大統領当選を果たしたときも、多くのトランプ支持者は自らオバマケア(これが意外と微妙な制度だった……的な問題はあるにせよ)を外す方を選んだ。少なくとも再分配に冷淡な政策を自ら選んだともいう側面は確実にあるのだ。

では、問題の本質はどこにあるのか?

これは要するにヒラリー的な、民主党的な「語り口」への反発が背景にあったと考えればいい。「自分たちエリートが稼いでやるから、お前たちは再分配で俺達たちに養われろ」と言わんばかりの態度が、「忘れられた人々」と呼ばれる20世紀的な、製造業中心のオールドエコノミーの労働者たちの反発を呼んだのだ。

『遅いインターネット』でも指摘したように、彼らが求めているのはむしろ世界に対する「手触り」だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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